■ 平安宮大内裏復元図
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平安宮大内裏復元図

平安宮大内裏復元図

大内裏(だいだいり)

 平安京の中央北端に配置されているのが大内裏(平安宮)である。内裏、朝堂院、豊楽院、さらにその他の役所(官衙)群が軒を並べる、平安京の中枢区画である。

 朝堂院は大極殿を正殿とする建物群で、天皇の即位礼や外国使節の謁見など、国家の重要儀式にもちいられる場所である。朝堂院の正門を応天門と呼ぶ。左右両翼に栖鳳楼、翔鸞楼の両楼閣をしたがえており、いやがうえでも偉容を誇示していたことであろう。大納言伴善男が失脚した「応天門の変」(貞観6年〈866〉)によってこの門が炎上させられたことも、この門が平安宮を象徴する建物のひとつと認識されていたことによるものであろう。応天門をこえて会昌門をくぐると、「朝堂十二堂」が並ぶ壮大な内庭が広がり、そのはるかかなたに大極殿の偉容がそびえている。

 大極殿は、朝堂院の正殿であるとともに平安宮の正殿であり、日本古代国家にとって最重要な建造物であった。建物は九間四面(9間×2間の身舎の四方に庇をめぐらす)で、基壇の規模は東西177尺(約53メートル)、南北70尺(約21メートル)であったと推定されている。桓武天皇の造営した第一次大極殿は貞観18年(876)の火災で焼失ししたため、すぐに再建工事がおこなわれた。これが第二次大極殿である。しかしこれもまた康平元年(1058)に焼失し、延久4年(1072)にいたってようやく第三次大極殿が再建された。そして、治承元年(1177)の「安元の大火(太郎焼亡)」によって三度焼失した後は、ついに大極殿が再建されることはなかったのである。

 最近の研究では、第一次・第二次・第三次の大極殿はそれぞれ構造を異にしていたということが判明している。平安神宮に再建された大極殿は『年中行事絵巻』の描写などにもとづいたもので、延久再建の第三次大極殿をあらわしている。単層で屋根が入母屋造であることが特色である。それに対して、第二次大極殿は同じく単層ながら、屋根が四柱造であることが異なっている。第一次大極殿については判然としないが、平城宮大極殿との比較検討などから、おそらくは重層の入母屋造であったと推定されている。

 大極殿の跡は、現在の千本通丸太町の交差点付近にあたっている。その西北の児童公園の中には明治28年(1895)の平安遷都1100年記念祭の時に建てられた「大極殿遺址」の巨大な石碑があるが、これは本来の大極殿跡からはやや位置が北にずれていることが判明している。千本丸太町交差点の西北角の道路上では、道路改修工事にともなう小規模な調査がおこなわれ、大極殿基壇の南側の落ち込みが確認されている。

※山田邦和「都の中枢・大内裏」『歴史群像シリーズ安倍晴明』(新人物往来社)より

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