■ 三善清行に出会った
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三善清行no
三善清行の墓(右は墓石拡大)

 京都と大津を結ぶ街道、志賀越(山中越)を踏査したときのことです。大津から入り、志賀峠を越え山中町を過ぎ、やっと北白川に入ったかという辺りで、三善清行に出会いました。なにげなくのぞいた祠の石には、「参議三善清行卿墳」と刻まれていたのです。三善清行(847〜918)といえば、醍醐天皇に『意見(封事)十二箇条』を上奏したことで知られる、平安前期の文人官吏です。
 
 三善清行の墓が建てられたのは、大正12年(1923)のことです。もともと同所に、小山がありムクの大木がはえていました。その小山の下に、「美目善地蔵(みめよしじぞう)」と呼ばれる木像の地蔵が祀られていました。「美目善地蔵」の「美目善(みめよし)」が、実は「三善(みよし)」のことではないかと言われはじめ、三善清行の墓もこの辺りにあったのではないかと考える人が出てきました。そこで土地の人々によって、地蔵が祀られていた場所に清行の墓が建てられました。もともとの美目善地蔵は、瓜生山の勝軍地蔵堂に移され、現在にいたっています。
 また。清行は、白川の地に「華亭」と呼ばれる別業を持っていたようです。『伊呂波字類抄』に、善法寺はもともと三善清行の華亭を、後に道場としたものとあります。善法寺のあった場所は、現在の岡崎神社(左京区岡崎東天王町)の境内にあたります。「白川女の花売り」の起こりは、清行のすすめにより、北白川の里に咲く草花を御所に献上したことからはじまるといわれています
 そのような伝承から、「美目善」が「三善」と連想され、清行の墓もこの辺りにあったと考えられていったのではないでしょうか。

三善清行邸跡石碑
 わたしにとって三善清行といえば敏腕な政治家としてのイメージよりも、一条戻り橋での蘇生説話や、『今昔物語』に出てくる五条堀川の化け物屋敷説話がなじみ深いです。
 一条戻り橋での蘇生説話とは、死んだ三善清行が子の浄蔵の祈りによって一条戻り橋で蘇生するという話です。戻り橋の命名由来の伝説でもあります。
 化け物屋敷説話とは、清行が五条堀川の荒れ屋敷を購入し、移り住もうとすると、そこに数々の化け物が出てきます。しかし清行は全く動ぜずに化け物たちを叱りつけ、その正体を老狐であるとつきとめる、という話です。『中古京師内外地図』にも、五条堀川の角に「三善清行亭」と書き込まれています。現在その地には、左のような「三善清行邸跡」の石碑が建てられています(下京区堀川通松原下ル、平安時代の五条大路は、現在の松原通のことです)。

【参考文献】
所 功『人物叢書 三善清行』(吉川弘文館 1970)
京都市北白川小学校編『北白川こども風土記』(山口書店 1959)
竹村俊則『昭和京都名所圖會 洛北』(駸々堂 1982)



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