■ 船岡山
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船岡山の石碑と山頂の磐座
左:「史跡 船岡山」石碑  右:山頂の磐座

 京都の北郊、紫野(船岡山から大徳寺周辺一帯)に横たわる丘陵が船岡山です。高さ112メートル、東西200メートルにわたり、山というより岡と呼ぶ方がふさわしい気がします。その姿が船の形に似ていることから「船岡山」と名付けられました。現在では、西側には船岡山公園として市民の憩いの場となり、東側には織田信長をまつる建勲神社(通称「けんくん神社」 正式には「たけいさお神社」)があります。
 船岡山は、ちょうど平安京の中心軸「朱雀大路」の延長線上にあることから、船岡山が平安京造営の基準点ではないかと考られています。たしかに船岡山の山頂から京都市内は一望で、平安京造営の時、この岡に上ってプランをたてるはとても自然なことのように思います。
 船岡山は、平安時代のはじめ、祭祀の場として登場します。山頂に残る磐座は、その祭祀の痕跡ではないかといわれていますが確かではありません(上写真右)。山頂からだとそんなに大きなものだとは感じませんが、一段下がって見上げると巨大な岩盤であることがわかります。天安2年(857)、貞観元年(858)には、陰陽寮に命じて五穀を食い荒らす害虫をはらう祭り、董仲舒祭法が行われました(『三代実録』貞観元年8月3日条)。正暦5年(994)、疫病の流行により、船岡山山頂に木工寮の造った神輿を置いて疫神をまつり御霊会が営まれました(『日本紀略』正暦5年6月27日条)。董仲舒祭法を行った貞観元年の記事には、「蓋擇清浄之處」(けだし清浄の所を選ぶなり)と書かれています。このことからも、船岡山が聖地として認識されたいたことがわかります。
 また、平安時代のはじめ紫野一帯は天皇の遊猟の地でもありました。清少納言の『枕草子』(231段)にも「岡は、船岡」と1番にあげられています。寛平8年(896)、宇多天皇は鷹狩りをしています(『日本紀略』寛平8年閏正月6日条)。寛和元年(985)の円融上皇の、「子の日遊び」(子の日遊び:正月初音の日に野に出て小松を引いて千代を祝い、若菜を摘んで宴を設け、和歌をよむこと)は特に華麗で、和歌などにもその様子がよまれています(『日本紀略』寛和元年2月13日条)。
 平安時代の中期以降は、船岡山から蓮台野一帯にかけては葬送の地に変貌します。山頂に散在する板碑や石仏などは、その名残でしょうか。保元の乱で破れた源為義らが処刑されたのも船岡山の麓です。

 中世に入ると、船岡山は洛中への北の入り口にあることから、戦略上の要所として山城が築かれました。応仁の乱では西軍の大内政弘・山名教之らが拠点をかまえ、東軍細川勝元と戦いました。応仁の乱以後も、しばしば使われましたが、特に永正8年(1511)、船岡山の戦いでは、船岡山に細川澄元が陣をしき、細川高国・大内義興の兵に攻め破られました。中世の山城の痕跡は、岡の中腹部に300メートルにわたって完存する空堀によって知ることができます。下の写真の2枚がそうです。建勲神社の本殿裏には、郭(くるわ 曲輪とも書く)も完存しているそうですが、神社の禁足地となっているので見ることはできません。「応仁永正戦跡」石碑 は、船岡山公園側にあります。

中腹の空堀
中腹の空堀 ひさびさに探偵犬マック登場!

建勲神社と応仁永正戦跡の石碑
左:建勲神社    右:「応仁永正戦跡」石碑

 建勲神社は、明治8年(1875)創建されました。はじめは中腹に建てられていましたが、明治43年現在地の山上に移りました。南参道には最近、「史跡 船岡山」石碑(1番上の左写真)と案内板が建立されました。

【アクセス】市バス建勲神社前、または船岡山下車すぐ
【参考文献】
船岡山城については、山下正男「京都市内およびその近辺の主要城郭」『京都大学人文科学研究所調査報告第35号』(京都大学人文科学研究所 1986)に復元図が掲載されています。



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