■ 伝・式子内親王墓
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伝・式子内親王墓
伝・式子内親王墓

玉の緒よ 絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする

 百人一首で知られるこの歌は、後白河天皇の第3皇女で賀茂の斎院をつとめた式子内親王のものです。忍ぶ恋のこの歌をどのような気持ちで詠まれたのか。
 式子内親王(のりこないしんのう 1153?〜1201)は後白河天皇の第3皇女で賀茂の斎院を病気で退下するまで10年間つとめました。新古今時代の代表的な女流歌人です。
 上京区の般舟院陵のかたわらに式子内親王の墓と伝えられる塔があると聞き、1度たずねてみようと思っていました。

伝・式子内親王墓

 般舟院陵(上京区今出川通千本東入ル北側)の西北奥に小さな塚があり、その上に五輪塔が建っています(上の写真)。確証はありませんが、古くからこの塚を「式子内親王墓」と伝えてきました。
 『応仁記』巻3に「千本に両歓喜寺、この寺に定家葛の墓あり」としるされています。「定家葛の墓」というのは、藤原定家が式子内親王に恋慕の情を抱き、その執心が葛になって内親王の墓に巻きついたという伝説によるものです。両歓喜寺のひとつは雨宝院の前身の大聖歓喜寺、いまひとつは般舟院陵の地にあった大歓喜寺です。大歓喜寺が応仁の乱で亡んだ後も、塚だけは残ったということになります。これをもとに謡曲『定家』がつくられました。このあたりは藤原定家の時雨亭跡とも伝えられ、この塚は「藤原定家塔」、「定家葛の墓」ともいわれています。
 
 さて式子内親王の忍ぶ恋の相手ですが、院御所の家司をつとめていた藤原定家といわれていましたが、近年の研究の結果法然がその相手であるということが明らかにされてきました。その事情については、石丸晶子『式子内親王伝』(朝日文庫)に詳しいです。
 塚の上のには五輪塔が建ち、塚の前にはたくさんの石仏が並んでいます。なかでも中央の石仏は、かなり摩滅がすすんではいますが鎌倉時代のもので、阿弥陀如来坐像を刻んでいます。近世の地誌である『雍州府志』では、石地蔵を「藤原定家塔」としています。ということは、この石仏が式子内親王墓ということになるのでしょうか。

※般舟院陵とは般舟院に隣接する御柏原天皇の母源朝子陵以下3分骨所10墓からなる陵墓です。伏見より寺の移転とともに移されました。

【アクセス】市バス千本今出川下車すぐ 般舟院陵は、平日しか扉が開いていませんのでご注意ください。



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