■ 四条宮寛子と白川金色院
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矢落遺跡
矢落遺跡現地説明会風景

 宇治市教育委員会で発掘調査が進められている矢落遺跡の現地説明会(2002年3月31日)へ行ってきました。矢落遺跡では平安時代後期の邸宅・庭園跡と室町期の集落跡が検出されました。平安時代後期の邸宅・庭園跡は、藤原摂関家が造営した別業(べつごう、別荘)の一部であると推定されています。左の写真ではわかりづらいかも知れませんが、池の州浜、庭石を見ることができます。教育委員会では、藤原頼通の娘で後冷泉天皇の皇后・四条宮寛子の邸宅の可能性があるとの見解をしめされました。
 現説見学の後、四条宮寛子ゆかりの旧跡を訪ねてみました。

四条宮寛子と白川金色院

白川金色院跡

 宇治の「白川」とは、宇治川の西南、平等院より南へ山をひとつ隔てた谷あいの里です。この白川の里には、平安時代後期から室町時代にかけて、「白川十六坊」といわれるほどの多くの坊舎が建ち並んでいました。その中でも中心的な御堂は「白川金色院」です。
 「白川金色院」は、藤原頼通の娘・寛子によって康和4年(1102)に創建されたと伝えられています。この伝承は、寛正4年(1463)に書かれた『白川別所金色院勧進状』によるもので、これ以前の
史料で確認することができません。しかし宇治市教育委員会による白川金色院発掘調査の成果から、平等院の康和3年大修造と同じ瓦が使われていることなどから、平等院大修造のころ、同様の瓦を用いて白川に寺院を建てることが可能であった人物として、四条寛子が有力候補であることが指摘されています(浜中邦弘「宇治の白川」『発掘ものがたり宇治』)。
 金色院をはじめ白川十六坊と称された坊舎ですが、江戸時代には多くが衰退し、幕末まで残った残った3坊も明治維新後に廃絶してしまいました。

白山神社

 現在、金色院跡には石碑が建ち、その奥には寛子の供養塔と伝える九重の石塔が建っています(写真上)。立派な総門も残されています(写真右)。
 白山神社は、金色院の鎮守社として勧請されたものです。重要文化財に指定されている拝殿(写真右)は、鎌倉時代の建物で、寄棟茅葺きの優雅な姿は必見です。
 近くの地蔵院には、金色院の遺仏遺品を多数所蔵しています。

【アクセス】

【参考文献】
浜中邦弘「宇治の白川」『発掘ものがたり宇治』(宇治文庫7 宇治市歴史資料館 1996)



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