■ 藤原氏の墓所を訪ねて
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藤原氏塋域の碑
藤原氏塋域の碑

宇治陵

 京都の南郊、宇治の木幡の地には、代々藤原氏摂関家の墓地が営まれていました。
 明治10年(1877)、宮内省によって調査され、藤原氏出身の皇室関係者17陵3墓を「木幡陵」に治定し、のちその陵域をさらに広げて「宇治陵」と改められました。しかしどの塚が誰のものかは明らかではなく、塚に1号から37号までのブロックにわけ、1号陵を総遙拝所(写真左)としています。 総遙拝所のそばに「藤原氏塋域」の碑が建てられています。

宇治陵

 しかし平安時代の陵墓として治定されている「宇治陵」は、すべてがその時代のものではありません。陵墓であるために内部へ立ち入るわけにはいきませんが、柵越しにのぞくと、直径10〜20メートル・高さ1〜3メート ルの大きな盛り土と、直径1メートル前後・高さ0,5メートル程度の小さな盛り土があることがわかります。大きい方の盛り土は平安時代の墳墓ではなく、古墳時代の古墳で、小さい方の盛り土が、平安時代の墳墓であるということです。つまり「宇治陵」と総称しているものは実は、古墳群と平安時代墳墓群というふたつの要素からなる複合遺跡なのです。
 それにしてもこの宇治陵のどこかに藤原道長や彰子が眠っているのかと思うとちょっとわくわくしませんか。

【アクセス】JR奈良線・京阪宇治線木幡駅周辺

浄妙寺跡

浄妙寺石碑

 藤原道長は、寛弘2年(1005)木幡に浄妙寺を建立し、一族の菩提を弔いました。浄妙寺は室町時代には廃絶し、その位置はわからなくなっていましたが、昭和42年木幡小学校建設にともなう発掘調査により、三昧堂跡と推定されました。
下の写真左は、木幡小学校のグラウンドの隅に建てられた浄妙寺跡の石碑です。

【アクセス】JR・京阪木幡駅下車 徒歩20分
【参考文献】宇治市教育委員会『木幡浄妙寺発掘調査報告書』1992



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