■小野篁に会いたい3
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 江戸時代の随筆『閑田耕筆』巻2(『日本随筆大成』9所収、吉川弘文館、1927)の中に「小野篁は閻王の化身にして、常に冥府に往来し給ふといひて、五條〈今の松原なり。〉の東に死の六道、上嵯峨に生の六道というふは、出入の穴有し所なりと傳ふ。」とあります。『閑田耕筆』が書かれた寛政11年(1799)には、小野篁が冥界を行き来した場所が、すでに広く伝えられていたことがわかります。
 では死の六道と生の六道を訪ねてみましょう。

あの世への入り口(死の六道=六道珍皇寺)

六道珍皇寺

 六道珍皇寺は松原通に面した北側にあります。平素はしんと静まりかえっているいますが、8月になると精霊迎えの行事で賑わいます。由緒書によると平安遷都に際し慶俊僧都の開基となって創建し、ついで弘法大師空海が興隆し、さらに小野篁が壇越となって堂塔伽藍を整備したといいます。
 同寺の閻魔堂には、小野篁の等身大の像が祀られています。その側の閻魔大王像も、小野篁の作であるという伝承を持っています。また、本堂の裏には、篁が夜な夜な冥界へ通った際の入り口であったという井戸があります。

六道の辻

 「六道の辻」とは、六道珍皇寺の門前から西福寺の門前のあたりのことをさします。六道と仏教の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の6つの冥界をいい、いっさいの衆生が生前における善悪の業因によって必ず行きつくところであります。この地は、葬送の場であった鳥辺野へつながる道でもあり、あの世とこの世の境ともいうべき場所なのですね。

【アクセス】市バス清水道下車 徒歩5分

この世への還り道(生の六道=福生寺の遺仏・薬師寺)

福生寺遺仏  今林陵の東側あたり
左 福生寺遺仏(生六道地蔵尊・小野篁像)  右 今林陵の東側あたり

 六道珍皇寺があの世へ入り口ならば、この世への還り口は上嵯峨の六道町にあった福生寺です。しかし、この寺は明治の初めに廃寺となりました。かつての福生寺には小野篁作と伝える「生六道地蔵尊」と「小野篁像」が祀られていました。それらの遺仏は、嵯峨釈迦堂(清涼寺)の境内西側にある薬師寺に移され安置されています。
 薬師寺の古い襖の下張にされていた古文書には、福生寺の遺仏の「生六道地蔵尊」の縁起が書かれていました(安藤良全「生の六道と小野篁公」)。それによると、地獄を訪ねた小野篁が地蔵菩薩に会い、この世にもどってその姿を彫り、冥土の入り口である嵯峨六道町に福生寺を建て安置したということです。
 また福生寺があった場所から、戦後に7つの井戸が見つかっています。その配置は、真ん中にひとつ、その左右に3つずつ並ぶというものです。それぞれの井戸の後方には大きな石地蔵、前方には小さな地蔵が並んでいましたといいます。薬師寺の本堂には、聞き書きをもとに復元された井戸の配置図が貼られています。これらの井戸が、篁があの世から戻ってきたと言う伝承を持っていた「還りの井戸」ではないかといわれています。しかし、これら井戸は宅地開発とともに埋められてしまい、現在ではその痕跡はありません。
 井戸に地蔵を祀ることで思い浮かぶのは、「壺井地蔵」で取り上げた「壺井」です。かつて壺井は西土手刑場で処刑された死刑囚の末期の水でした。井戸脇には地蔵が祀られていまう。いわばあの世とこの世を結ぶ役割を担った井戸ということで、福生寺の井戸と何か共通点があるように思えてなりません。
 福生寺のものと伝えられる井戸があった場所を、薬師寺のご住職さんから詳しくうかがい訪ねてみました。もちろん現在ではその跡をしめすものは何もありません。だいたいの位置は、遊義門院(後深草天皇皇女)の御陵(今林陵)のちょうど東側にあたるそうです(下写真右)。
 薬師寺では、毎年8月24日の「地蔵盆」に、湯葉で作った帆にカボチャの船の供え物を作り、「生六道地蔵尊」と「小野篁像」に供えられます。本堂前では送り火として経木を焚きます。この日に限って本堂が一般に公開されるので、生六道地蔵尊と小野篁像を見ることができます。

【アクセス】
薬師寺 市バス嵯峨釈迦堂前すぐ
福生寺跡は清涼寺から東へ300メートルほど歩いた今林陵の東側一帯 

【参考文献】
安藤良全「生の六道と小野篁公」雑誌『知恩』1978年8月号
梅原猛「篁と地蔵と薬師寺」『京都遊行 1』新潮社、1997

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