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紫式部邸顕彰碑
紫式部邸顕彰碑(廬山寺)

紫式部の邸宅址、中河のわたり

 『源氏物語』が石山寺で書かかれたという伝説は、室町時代中期頃に作られた俗説です。もちろん紫式部も石山寺に1度や2度はお参りしているに違いありませんけれど、石山寺にこもるということは、あくまで宗教的儀式です。
 では紫式部はどこで源氏物語を書いたのでしょうか。やはり一生の大半を過ごした彼女の家でしょう。

 紫式部は、堤中納言と呼ばれ歌人として有名な曾祖父藤原兼輔より彼女の父・藤原為時が伝領した堤第に住んでいました。おそらくというよりは当然ここで書かれたと思われます。堤第があったあたりは「中河」と呼ばれていました。東の京極大路(現在の寺町通)の東側を流れていた川を中河といいますが、地名として近衛大路以北の流域を地名としても中河と呼ばれていました。平安京外ですので、平安時代前期には、田園風景が広がっていました。しかし向かいには染殿、清和院、斜め向かいには藤原道長の土御門殿などの名邸がありました。『源氏物語』の中でも中河の地がしばしば登場してきます。
 
 紫式部の邸宅址の現在位置は、ちょうど上京区の廬山寺のあたりです。廬山寺には紫式部邸顕彰碑と、それを記念した源氏の庭が造られています。

【アクセス】市バス府立医大病院前すぐ
【参考文献】角田文衞『平安京散策』(京都新聞社 1991)

紫式部の墓と紫式部供養塔


紫式部墓  紫式部供養塔(引接寺)

 紫式部墓と伝える墳丘が、北区堀川通北大路下ル西側にあります。同一敷地内には伝・小野篁墓があります。この辺りは、平安の昔から蓮台野(れんだいの)と呼ばれる墓地だったので、貴族の墓があってもおかしくはありません。この両人の墓がこのあたりにあったということは、文献上でも古い伝承として残っています(14世紀の『河海抄』巻1には、すでに記されています)。しかし、現在見られるこの墳丘に本当に紫式部・小野篁が葬られているかどうかは、もはや確認するすべもありません。

 引接寺(千本閻魔堂 上京区千本通廬山寺上ル)境内には、「紫式部供養塔」という十重の石塔があります。南北朝時代(1386年)の重厚な塔で、重要文化財に指定されています。

【アクセス】
紫式部墓 市バス北大路掘川すぐ
引接寺(千本閻魔堂) 市バス乾隆校前すぐ

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