■安倍晴明の伝説を追う1
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長仙院安倍晴明像
安倍晴明像(長仙院蔵)

 安倍晴明の伝説を追うでは、京都市内に残る安倍晴明ゆかりの伝説地を集めました。

晴明塚 安倍晴明公墓所

安倍晴明公墓所

 晴明のお墓と伝えられる「晴明塚」は、日本中あちこちにあったようですね。もちろん、日本中の「晴明塚」に本当に晴明の遺体が葬られているわけではありません。「晴明塚」とは、晴明が生きた時代よりももっと新しい時代に、占い・加持祈祷を生業にする声聞師(下級陰陽師)が、自分達の祖師として晴明を祭ったものです。ですから彼らの活動拠点となる橋のそばや、街道沿いに残されていることが多いのです。
 京都にもいくつかの「晴明塚」がありましたが、ほとんどはなくなってしまい、現存しているのは嵯峨にあるものだけです。JR嵯峨嵐山駅の近く、長慶天皇陵の一角にくっつくようにしてあります。ここは、現在は晴明神社が管理していて、桔梗紋の文様のついた立派な石塔が立っています。
この嵯峨の「晴明塚」は中世から知られているという古いものですから、「晴明塚の中の晴明塚!」といっても過言ではないでしょう。

【アクセス】JR山陰本線(嵯峨野線)・嵯峨嵐山駅または嵐電の嵯峨駅前駅下車 南へ徒歩5分 長慶天皇陵の横

晴明塚・晴明屋敷跡伝説 伏見街道沿い

遣迎院

 東福寺の門前道路・本町通は京都と伏見をつなぐ重要な交通路で、伏見街道と呼ばれていました。この伏見街道沿いにも、晴明屋敷や晴明の墓(晴明塚)があったという伝説が残されています。
 京都市立一橋小学校の南側付近(東山区本町通十丁目と十一丁目の境)にはかつて「一ノ橋」という橋が架けられていましたが、その東南に「晴明屋敷」があったということです。一橋小学校の校庭には「一ノ橋」の欄干が移されています。
 
 さらに南へ進み、東福寺の南側に遣迎院(左写真)というお寺があります。この寺の南の竹林の中に「晴明塚」が残されていたというのですが、大正時代に破棄されてしまったということです。

【アクセス】JR奈良線・京阪電車の東福寺駅下車 一橋小学校へは北へ徒歩5分、遣迎院へは南へ徒歩5

晴明塚・晴明屋敷跡伝説 五条橋中島

五条橋から鴨川をのぞむ

 鴨川にかかる五条橋というと、牛若丸と弁慶の出会いの場として有名です。ただ、現在の五条大橋は桃山時代以降のものであり、古代・中世の五条橋は現在の松原橋にあたります。
 戦国時代の『洛中洛外図屏風』(上写真右)を見ると、五条橋のところの鴨川にはかつて大きな中島があったことがわかります。この島の上には「法城寺」と呼ばれる寺院がありました。この寺は安倍晴明が鴨川の洪水鎮護のために建てたものだという伝承をもっており、その境内には晴明塚も存在していました。法城寺・晴明塚は声聞師(下級陰陽師)たちの信仰と活動の拠点として栄えましたが、豊臣秀吉の陰陽師集団への弾圧によって解体され、やがては五条橋中島も消滅してしまいます。上の左の写真は五条橋から北を撮ったものですが、かつてここに中島が存在したなんてことは信じられない気がします。
 では法城寺・晴明塚は完全に姿を消してしまったのでしょうか?
近世にはいり、法城寺・晴明塚の後身であると伝える寺院がいくつか存在しました。三条大橋東詰に「心光寺」というお寺があります。この寺の正式の名は「法城山晴明堂心光寺」といい、五条橋中島の法城寺が移転したものだと伝えられています。しかし現在の心光寺には再築されたはずの晴明塚も存在せず、そうした記憶はほとんど失われてしまっています。

 また、江戸時代にはいると、五条橋中島の故地に近い松原橋東詰に「晴明社」が建造され、その社を守護する「清円寺」というお堂も造られました。しかしこれらも明治になって廃絶させられ、そこに祀られていた晴明像などの仏像・神像も他に運ばれてしまいました。現在、これらの仏像・神像は裏寺町の長仙院(京都市中京区)に所蔵されています。

【アクセス】長仙院 市バス河原町三条下車、西南へ徒歩3分(拝観には予約が必要)
【参考文献】
瀬田勝哉『洛中洛外の群像ー失われた中世京都へー』平凡社 1994年
山田邦和「鴨川の治水神」(『花園大学文学部研究紀要』32号 2000年)

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