■今熊野観音寺宝塔〜伝慈円・忠通・長家の墓 |
今熊野観音寺の墓地の三宝塔 今熊野観音寺宝塔 東山区にある今熊野観音寺の境内墓地の一画に、3基の宝塔があります。宝塔は、基礎・塔身・笠・相輪からなっています。3基の宝塔は、みな相輪の部分が失われ、五輪塔の空・風輪で代用されています。また左の塔は基礎を失っています。川勝政太郎『京都の石造美術』
によると、製作年代はいずれも鎌倉時代後期とされています。右から慈円、藤原忠通、藤原長家の墓(※)と伝えられています。慈円、藤原忠通、藤原長家の墓そのものとは考え難いですが、藤原氏に関わる供養塔のひとつであったとしてもおかしくはないと思います。3基の宝塔は、冷泉家により管理されています。 今熊野観音寺は、平安時代の初め藤原緒嗣が建立した仙遊寺の観音堂に由来しています。平安時代の中頃には、 平安京の葬送地のひとつ鳥部野(鳥辺野・鳥戸野)
でもあることから、葬地を管理していたと考えられています。その例として、藤原道長の夫人倫子の母一条尼上が、観音寺に無常所を設けて法事を行ったことがあげられます(『御堂関白記』)。院政期に入ると、後白河法皇によって崇められました。上皇は院御所法住寺殿の鎮守社として勧請された紀州熊野権現を勧請し(新熊野神社)、観音寺の千手観音をその本地仏としました。観音寺には、熊野御幸の際、精進潔斎をする精進所も設けられました。 【参考文献】 【アクセス】 |
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