■当道職屋敷跡
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当道職屋敷跡の石碑
「当道職屋敷跡」石碑

当道職屋敷跡

 仏光寺通東洞院を東に入った洛央小学校正門の植込みに、「当道職(とうどうしき)屋敷跡」の石碑が建っています。「当道職屋敷」とは、近世の目の不自由な人たちの職能集団であった「当道座」の最高位の惣検校以下が在住する屋敷のことです。中世の「当道座」は平家物語を語る琵琶法師の集団が中心でしたが、時代とともに筝曲・三弦・鍼灸・按摩・金融業などが加わっていきます。その成立事情については不明な点が多いのですが、制度が細分化され整ったのは江戸時代に入ってからのことでした。「当道座」は治外法権的な自治権をもち、座の中で裁判等も行っていました。
 「当道職屋敷」は、「当道座」の中興の祖とされる明石覚一検校以下の位牌をまつる清聚庵の別称です。江戸時代初期から元禄ごろまでは、五条坊門(現在の仏光通)の東洞院の西、烏丸東にあったのが、のちに五条坊門)の東洞院東、高倉西に移りました(石碑の建っている場所)。
 明治4年、当道座制度の廃止により職屋敷も廃止され、跡地は小学校となりました。

 現在、「当道職屋敷」の石碑が建っている辺りが近世後半の当道職屋敷跡であることはわかりました。では中世の当道職屋敷はどこにあったのでしょうか。いろいろと調べましたが、よくわかりません。ひとつ興味深い説があります。兵藤裕己先生が『平家物語の歴史と芸能』の中で、応仁の乱当時、またそれ以前から、当道職屋敷(座務機関)が浄教寺にあったということを指摘されているのです。浄教寺は、重盛の灯籠堂の古蹟という伝承を持つ寺院です。兵藤先生がそう推測されているのは、歴代惣検校の在職年数や法名などを記した『職代記』の冒頭に、当道の文書類が応仁の乱のときに浄教寺で失われたという記述があるからです。現在の浄教寺は四条寺町を下がった所にありますが、中世には五条東洞院にありました。「当道職屋敷跡」石碑のすぐ近くです。

 今年の春に浄教寺(非公開寺院)を訪ねました。浄教寺は、天明の大火で焼けたこともあり、古い文書類は何も残っていません。しかし、寺が所蔵されている平家琵琶を見てから、平家琵琶の座との関係がずっと気になっていました。今回、当道職屋敷を調べていくうちに、兵藤先生の本に出会い、とても勉強になりました。さらに調べていきたいと思います。

 下の写真の左は、浄教寺に伝わる平家琵琶です。右の写真は、兵庫県尼崎市の大覚寺に祀られている覚一検校の木像と位牌です。参考のために載せておきます。大覚寺では毎年、覚一検校忌が行われています。

平家琵琶と覚一の像

【アクセス】阪急烏丸駅、地下鉄四条駅、市バス四条高倉下車
【参考文献】
兵藤裕己『平家物語の歴史と芸能』(吉川弘文館 2000)
館山漸之進『平家音楽史』(藝林社 1974)
中山太郎『日本盲人史』『続日本盲人史』(八木書店 1976)
谷合侑『盲人の歴史』(明石書店 1996)



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