■ 安徳天皇産湯の井戸
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釣殿井
安徳天皇産湯の井戸

安徳天皇産湯の井・釣殿井

 妙順寺(東山区大和大路五条上ル山崎町)の境内に、「釣殿井」と呼ばれる井戸があります。平頼盛の邸宅・池殿との関連があるものだといわれています。竹村俊則氏の『昭和京都名所図絵』によれば、別名を「安徳天皇産湯ノ井」ともいうそうです。
 東山区役所が出している「東山散策マップ(北部)」でその存在を知り、さっそく見に行ってきました。どっしりとした石組み、その底辺には「釣殿井」と掘られた文字が読みとれます。
 家に帰ってから近世の地誌類を片っ端からあたってみましたが、「釣殿井」「安徳天皇産湯ノ井」に関する記述を見つけることができませんでした。竹村俊則氏の『昭和京都名所図絵』では欄外の註の記事なので、何を根拠としているのかが記されていません。詳細は不明ですが、継続して調べていきたと思います。

 平氏の拠点のひとつ六波羅第ですが、その確実な範囲はわかっていません。わずかながら池殿町、門脇町、三盛町(旧泉殿町)、多門町などの町名にその痕跡を残しているのではないかといわれています。清盛の泉殿を中心に、頼盛の池殿、東に向かって惣門が開かれその脇に教盛の門脇殿、少し離れて東南の苦州滅道(現在の渋谷通)に面する小松谷に重盛の小松殿が建ち並んでいたと推定されています。
  治承2年(1178)11月には泉殿で、清盛の娘・徳子(建礼門院)が後の安徳天皇を出産しています。また治承4年(1180)、福原より還御した後白河法皇は泉殿へ、高倉上皇は池殿へ入ります。翌年、高倉上皇が崩御したのも池殿です。泉殿と池殿の位置関係ですが、『山塊記』によると、一町を隔てて南北に並んでいたことがわかります。寿永2年(1183)、平家都落ちに際して、西八条第とともに、六波羅第も自ら火を放ち灰燼に帰します。その後、源頼朝が京都滞在中の邸宅を新築した場所は、池殿の旧地です。
 
  妙順寺の「釣殿井」は、泉殿の跡とされる三盛町とは離れています。しかし、池殿町と隣接しており、池殿との関連があるのかもしれません。

【アクセス】市バス五条大和大路からすぐ



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