■ 源為義の墓
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源為義の墓
源為義の墓

 「崇徳院の怨霊のゆくえ」を書くために調べているとき、源為義の墓と伝えられる史跡があることを知りました。源為義は保元の乱で崇徳上皇方につき敗れて首をはねらました。写真を撮りに行ったのはちょうど桜のころでした。訪ねる墓は、にぎやかな商店街のはざまにひっそりと祀られていました。

保元の乱と源為義の墓

 保元元年(1156)7月2日鳥羽法皇が亡くなると、皇位をめぐって後白河天皇と崇徳上皇が対立します。それに摂関家内部の関白藤原忠通と左大臣藤原頼長との権力抗争が加わり、天皇と忠通、上皇と頼長とがそれぞれ結びつきます。それぞれの勢力の招集に応じ、天皇側には源義朝・平清盛等、上皇側には源為義・平忠正等の武士が馳せ参じ、権力抗争は戦乱へと拡大しました。7月11日、天皇側は上皇側の御所・白河北殿に夜襲をしかけ、御所に火の手があがります。保元の乱の勃発です。戦いは数時間後に天皇側の勝利に終わりました。それによって崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長は流れ矢で受けた傷がもとで逃亡先の奈良で死に、源為義は実子の義朝に、平忠正は甥の清盛によって斬首されました。
 さて下京区にある権現寺(下京区朱雀裏畑町)の横には、源為義の墓と伝えられる石塔が建っています(上写真)。もともとこの場所にあったのではなく、千本七条あたりにありました。明治45年に 京都停車場(京都駅のこと)の拡張により権現寺とともに現在地に移されました。その様子は『都名所図会』巻4にも「為義塚」として描かれています。
 それではなぜこの場所に為義の墓があるのでしょうか。『保元物語』では為義は、七条朱雀で首を切られ、首実検の後、北白河円覚寺に葬られたとしています。為義が斬首された七条朱雀とは現在の千本七条付近であり、この為義墓の旧地にあたっているのです。円覚寺は現在はありません。現在の左京区北白川下池田町あたりにあったとされています。保元の乱のころには源為義の宿所となっていました。つまり権現寺の為義墓は、この『保元物語』の記述によって祀られたものだということになります。(円覚寺の場所について角田文衞先生が「北白川廃寺の問題」『角田文衞著作集2 国分寺と古代寺院』で考証されています。一般には『山州名跡志』などの記述により岡崎公園のあたりにあったとされているのは間違いであると指摘されています。)
 また慈円の『愚管抄』には、為義が斬られた場所について次のような記述があります。
「カクシテ為義ハ義朝ガリニゲテキタリケルヲ、カウカウト申ケレバ、ハヤククビヲキルベキヨシ勅定サダマリニケレバ、義トモヤガテコシ車ニノセテヨツヅカヘヤリテ、ヤガテクビキリテケレバ、」(日本古典文学大系)。つまり、為義が斬られたのは東寺・羅生門のあたりの「四塚」だということになります。平安京の葬送の地として良く知られているのは、鳥部野や蓮台野ですが、それ以外にもいくつかの葬地がありました。「四塚」もそのひとつで、中世以降さらし首の場所として、また共同墓地としての役割を持っていました。七条朱雀から四塚までの距離は約1キロほど離れていますが、七条朱雀が朱雀野と表現されることから考えると、ひろい意味で七条朱雀から四塚あたり一帯が葬送地であり、同時にしばしば処刑の場所として使われていたと考えて良いと思います。
 しかし、為義が七条朱雀で斬られたということには有力な反証があります。平信範の日記である『兵範記』の保元元年7月30日条によると「為義、頼方、頼仲、為成、為宗、九郎、巳上左馬頭義朝、於船岡邊斬之、但為義、検非違使季實、依勅定實倹云々」とあります。つまり七条朱雀で斬られたのでは無く、5人の子供たちと一緒に船岡山のあたりで斬られたことになっています。同時代史料でそうなっている以上、歴史的に見ると『保元物語』や『愚管抄』の記述を受け入れることはできないということになります。
 為義が七条朱雀、四塚で斬られたということが事実ではなかったにしろ、そうした伝承が鎌倉時代の初期にはすでに信じられてきたことは確かです。この為義墓は、平安京の境界としての七条朱雀=四塚の名残りを伝える極めて重要な史跡だということになります。

【アクセス】為義の墓 市バス七条千本下車すぐ
【参考文献】
角田文衞「北白川廃寺の問題」『角田文衞著作集2国分寺と古代寺院』(法蔵館 1985)
勝田至「京師五三昧考」『日本史研究』409(日本史研究会1996.9)

源氏堀川館跡(若宮八幡宮旧社地)

若宮八幡宮旧社地

 源為義は「六条判官(ろくじょうはんがん)」と呼ばれることがあります。為義の邸宅が六条堀川にあり、もと判官(検非違使の尉)であったからです。
 平安時代中期、天喜元年(1053)、後冷泉天皇の勅願で源頼義が六条西洞院にあった邸宅に若宮八幡宮を創建しました(若宮八幡宮については「足利義満寄進の手水鉢」参照)。若宮八幡宮は五条大橋東へ移転してしまいますが、旧地にも町内の方々によって、小さなお社が祀られています。若宮八幡宮の石柱の横には、「此附近八幡太郎源義家誕生地」という文字が刻まれています。
 京都における源氏の拠点であり、源頼朝の命をうけた土佐坊昌俊が義経に夜討ちをかけたのもこの場所です。

【アクセス】市バス西洞院六条下車すぐ

伴緒(とものお)社(白峰神宮)

伴緒社

 白峰神宮の摂社である伴緒(とものお)社は、為義とその息子・為朝を祭神として祀っています。白峰神宮は、崇徳上皇の霊をなぐさめるために、明治天皇が父・孝明天皇の遺志をついで創建されたものです。
 白峰神宮には崇徳上皇在世中の宸筆と伝えられる宸影(鎌倉時代)と、源為義・為朝親子の画像が伝わっています。源為義・為朝親子の画像は、ご神体として神殿に納められ、その新写もまた蔵しています。この画像は、西田直二郎先生の「崇徳天皇廟所」『京都史蹟の研究』(吉川弘文館 1961)によると、もともとは崇徳天皇御影堂が伝えたものであるとしています。崇徳天皇御影堂は崇徳天皇廟とともにあった堂です(御影堂について詳しくは「崇徳院の怨霊のゆくえ」参照)。

【アクセス】市バス堀川今出川下車すぐ



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