■ 木曽義仲の首塚
▲home 


木曽義仲の首塚
木曾義仲の首塚(八坂墓・朝日塚)

わたしが『平家物語』の中で1番好きな場面は、源義仲の最期の場面を語る「木曾最期」です。

 義仲一行は、源義経・範頼との戦いに敗れ近江の粟津へたどり着きます。とうとう乳人子の今井四郎兼平と二人となり、兼平に弱音をはく義仲。それをなだめすかす兼平。兼平は、義仲を静かに自害させようとただ一人で敵勢を迎え撃ちます。義仲は自害するために松原へと駆けていきますが、深田にはまってしまいます。兼平を気遣って振り返った瞬間、義仲は敵兵の矢に射ぬかれ命を落とします。それを見た兼平は、もう守るべき主人もいないのだからと刀を口に含み馬からまっさかさまに飛び落ちて自害して果てます。

 源義仲(1154〜1184)は、源為義の二男・義賢の子です。義賢が源義平に殺されたのち、信濃の中原兼遠に育てられました。治承4年(1180)、以仁王の令旨に応じて挙兵し、倶利伽羅峠で平氏を敗り北陸道から入京します。しかし、後鳥羽天皇の即位に対して以仁王の遺児である北陸宮をおしたこと、後白河法皇が頼朝を勲功第一としたことなどから法皇と反目していきます。さらに、兵糧不足や軍兵の無秩序から人心を失い、水島合戦でも平氏に敗れ、ますます孤立していきます。その打開を求めて法皇に対するクーデターを敢行し、征夷大将軍に任じられた直後、源義経・範頼に敗れ北陸道に落ちる途中で敗死します。

木曽義仲の首塚

 八坂の塔で知られる法観寺の境内に、「八坂墓」・「木曽義仲の首塚」がまつられています。「八坂墓」は、『延喜式』諸陵寮にしるされた光孝天皇外祖母藤原数子の墓と伝えられていますが、別名「朝日塚」という呼び名から、朝日将軍と呼ばれた「木曾義仲の首塚」といわれてきました。近江粟津で討たれた義仲の首は、六条河原でさらされた後、法観寺の境内に葬られたと伝承されています。明治時代の後半に、近くの護国神社へ向かう参道沿いの旅館の前庭に首塚の石碑が建てられ、町内の有志の方々によって供養されてきましたが、平成9年(1997)旅館の廃業にともない法観寺に引き取られ、塔の横に移されました。

【アクセス】市バス東山安井下車 法観寺の境内

山吹御前の墓

山吹御前の墓

 縄手通三条下ったところにある有済小学校の校庭には、木曽義仲の愛妾山吹御前の墓と伝えられている石塔があります。また近世の地誌『山州名跡志』には、力士塚として、佐藤忠信のなじみの遊女力士の墓としています。



▼平安京を歩こうindex
(C)平安京探偵団