■ 平重衡の墓
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平重衡の墓
平重衡の墓

 平家の公達の中でご贔屓をあげれば、わたしにとって平重衡はかなり上位にきます。『平家物語』の中でも、重衡が南都へ護送され途中、妻である大納言典侍との別れを描いた場面は、感動的で涙を誘います(「重衡被斬」)。その別れの舞台を訪ねてみました。

平重衡の墓

 平重衡(1157〜85)は、平清盛の五男で、母は平時子。左近衛権中将。
 治承4年(1180)5月、以仁王・源頼政を討ち、12月には反平氏勢力の拠点である興福寺・東大寺南都攻撃の総大将となり、大仏殿を焼亡させました。翌養和元年(1181)3月、墨俣川の戦で源行家を破ります。平家都おちの後も、寿永2年(1183)閏10月、水島合戦、11月の室山合戦で源氏側を撃破します。
 しかし翌年2月、一ノ谷の合戦で捕らえられ鎌倉に送られます。鎌倉では源頼朝に丁重に遇されますが、治承4年の戦いでの焼き討ちを恨む南都衆徒の要求により南都へ連行されます。連行される途次、正妻の大納言典侍(藤原輔子)と再会します。大納言典侍は、日野に住む姉のもとに身を寄せ重衡が通るのを待っていました。
 そして文治元年(1185)6月23日、木津川の河畔で処刑されました。首は南都衆徒に渡され、奈良坂にさらされました。その骸と首は、大納言典侍がもらい受け、日野で荼毘にふされました。火葬地には塚を築き、骨は高野山へ納められました。

 京都市伏見区日野には、平重衡の墓と伝えられている史跡があります。「従三位平重衡卿墓」としるした石標とその横にはばらばらの五輪塔が並んでいます。墓のまわりは整備され緑地公園となっています(上写真)。
 重衡が斬られた木津川の河畔には安福寺という寺があります。重衡の菩提を弔うために創建されました。哀堂(あわれどう)とも呼ばれています。本尊の阿弥陀如来像は、重衡の引導仏と伝えられ、境内には重衡供養塔といわれる鎌倉時代の十三重塔があります(下写真右)。また近所には、重衡首洗池があり、その側には不成柿と呼ばれる柿の木があります。重衡が最後に食べた柿の種が生長したもので、実がならないと言い伝えられています。しかし現在の池は3代目で、もとの池は奈良線の開通でなくなり、2代目は台風で砂に埋もれ附近の土地を整備するときに、現在の場所に移したそうです(写真左・中)。

不成の柿 平重衡首洗い池  安福寺境内平重衡供養塔
左から 不成の柿 平重衡首洗い池 安福寺境内平重衡供養塔

【アクセス】
日野の重衡の墓 京阪バス一言寺下車徒歩 
安福寺・不成の柿・平重衡首洗池 JR関西本線・奈良線・学研都市線木津駅下車徒歩

【参考文献】
角田文衞「三位中将重衡の場合」『平家後抄 上』(朝日新聞社 1981)
古典サークルつぎねふ『平家物語と南山城』(宇治木幡公民館 )



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