■ 牛若丸の腰掛け石
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牛若丸の腰掛け石

 上の写真はなんだと思いますか? どこにでもある何のへんてつも無いただの石。ちょっと腰掛けるには具合がいいかなあと思われた方は、大正解です。
 この石は、京都薬科大学のグラウンドの隅にあります。牛若丸こと源義経が、金売り吉次に連れられて京都から奥州平泉に下る途中、休憩して腰掛けた石だという伝承をもっています。この近辺に伝わる義経伝説とその伝説地を紹介します。

義経下向に関わる伝説地など

 京都市内と山科をつなぐ街道沿い、日岡峠を境として京都寄りを「蹴上(けあげ)」といいます。この地名の由来に、牛若丸こと源義経の伝説が関与しています。
『山城名勝志』巻第13(『新修京都叢書』第14)に、次のように書かれています。

○蹴上水{在粟田口神明山東南麓土人云関原與市重治被討所}
異本義經記云安元三年初秋ノ比美濃國ノ住人關原與市重治ト云者在京シタリ私用ノ事有テ江州ニ赴タリ山階ノ辺邊ニテ御曹司ニ行逢重治ハ馬上ナリ折節雨ノ後ニテ蹄蹟ニ水ノ有シヲ蹴掛奉ル義經其無禮ヲ尤テ及闘諍重治終ニ討レ家人ハ迯去ヌ

(美濃国の侍関原与市と従者の一行が、山科(山階)あたりを通りかかった時、過って義経に水溜まりの水を蹴りかけてしまった。それを咎めた義経と争いになり、義経は与市と従者を斬り殺してしまう。)

 日岡峠を境として山科よりを九体町といいました。九体町は、斬り殺された与市ら9人の菩提を弔うために村人が石仏を9体安置したのが地名の由来とする伝承があります。この9体の石仏のうち6体は無くなくなりましたが、3体は街道筋に残されているといいます。下の写真の左側2体がそうです。左の1体は、街道筋の北側にまつられています。中央の1体は、日向大神宮の鳥居をくぐり、神宮へ行く参道の途中に、義経大日如来としてまつられています。もう1体は、街道沿いにあるらしいのですが未見です。竹村俊則先生の「京の牛若丸とその一行」(『京都伝説の旅』所収)に詳しく書かれていますが、日岡付近は昔粟田口の刑場があったところで、石仏は刑死者の菩提を弔うために作られたものだと考えるのが妥当のようです。
 日岡峠からさらに進んだ山科区御陵血洗町には、「血洗いの池」または「義経刀洗い水」「与市の首洗い水」と称する池と「牛若丸腰掛石」という伝説地が残っています。同じく義経と与市一行との争いの伝承から生まれたものです。「牛若丸腰掛石」は、上の写真がそうです。「血洗いの池」は、腰掛け石のすぐそば、下の右写真、四ツ辻地蔵の背後あたりにあったという池です。今は住宅地となってその跡はありません。

 また、義経が奥州下向の折りに祈念したといういわれを持つ恵比須像が、粟田神社の境内にまつられています。この像は、もと粟田山字夷谷にあったものが、明治に粟田神社へ移されたそうです。
このように粟田口から山科を抜け奥州へ向かう街道にそって、義経の伝説地が多く残されているのはとても興味深く思います。

蹴上地蔵 義経大日如来 四つ辻地蔵
左から 蹴上地蔵 義経大日如来 四つ辻地蔵

義経伝説地図

【アクセス】
義経大日如来・蹴上地蔵へは地下鉄東西線蹴上
牛若丸腰掛け石・四つ辻地蔵へは市バス薬科大学前

【参考文献】
竹村俊則「京の牛若丸とその一党」『京都伝説の旅』(駸々堂 1976年)



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