■以仁王の挙兵
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 治承4年(1180)、後白河院の第2皇子以仁王(1151〜1180)は源頼政とともに挙兵します。挙兵は失敗に終わりますが、以仁王が発した諸国への令旨は、反平氏勢力の結集をうながし、諸国の源氏を蜂起させます。源頼朝の東国政権もこの令旨が拠り所であるとされています。

以仁王の墓

 京都府相楽郡山城町の高倉神社には以仁王がまつられており、社前右には以仁王の墓と伝えられる陵墓があります。下の左写真は陵墓を背後から撮ったものです。宇治川合戦の後、奈良へ落ちていく途中、流矢に当たって亡くなりました。後世、村人によって神社境内に葬られたとされています。
 高倉神社南の田の中に、小さな円墳があります。以仁王にしたがい宇治川の合戦で奮戦した筒井浄妙の墓と伝えられています。京都人は、浄妙といえば祇園祭の浄妙山が思い浮かぶのではないでしょうか。『平家物語』の「橋合戦」の浄妙と一来法師の橋上での場面を再現したのが浄妙山のご神体になっています。

以仁王の墓 筒井浄妙の塚

高倉宮跡

高倉小路西側溝の位置

 以仁王の御所は平安京の高倉小路西、三条大路北、東洞院大路東、姉小路南にあり「高倉宮」と呼ばれていました。現在は京都文化博物館、中京郵便局、元初音中学校にあたります。
 東洞院通姉小路下ル東側の元初音中学校の門を入った植え込みの中に「高倉宮跡」の石碑が建っています。先日おとずれたとき、植え込みが生い茂って門扉の外からでは石碑が見えませんでした。
 三条通東洞院上ル東側には発掘調査で東洞院大路東側溝が検出されたことを示す説名板が建っています。高倉宮の西辺にあたります。
 三条通高倉上ル西側の京都文化博物館入り口の床タイルに注目してください。色が変えた幾本もの筋がはいっています。これは同博物館建設前の発掘調査で検出された高倉小路西側溝の位置を表示したもので、高倉宮の東辺にあたります。

追記
元初音中学校は、京都市教育相談総合センター (こども相談センター パトナ)として生まれ変わりました。「高倉宮跡」の石碑は、通りに面してよく見えるように設置されました。

【アクセス】下京区寺町四条下ル 市バス四条河原町下車すぐ



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