■菖蒲谷と六代御前
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菖蒲谷と六代御前

菖蒲谷池
菖蒲谷池

 鳥居本から高雄までをつなぐ嵐山・高雄パークウェイの中間点に、菖蒲谷池があります。菖蒲谷池は、江戸時代に菖蒲谷の谷水をせき止めて作った人工のため池です。貸しボート、釣り、バーベキュー、ドッグランなどの施設があり、自然に囲まれた公園となっています。

 壇ノ浦で平家が滅んだ後、各地で平家の残党狩りがはじまります。平維盛の嫡男・六代は、そのころまだ12歳。母や妹とともに洛西の菖蒲谷に隠れて暮していました。女房の密告によって、鎌倉方に居所をつきとめられ、捕えられ、まさに処刑されようとしところを、文覚の助命嘆願によって助けられました。その後、六代は、文覚の弟子となり仏門に入り、各地を修行します。しかし、庇護者の文覚が謀反のうたがいで流罪になり、六代も斬られてしまいます。  (『平家物語』覚一本より要約)

 菖蒲谷池公園には、「清盛の曾孫 六代隠棲の地」という駒札が建ち、平家の嫡流六代が隠れ住んでいたという伝説を伝えています。しかし竹村俊則さんは『昭和京都名所図會4 洛西』の中で、この菖蒲谷池の伝説を指して、「とても人の住むような処ではなく、六代御前隠棲説は現地を知らぬ妄説である」とされています。

 六代母子が隠れていた場所は、『平家物語』の語り本系では「菖蒲谷」、読み本系では「菖蒲沢」、『吾妻鏡』(文治元年12月17日条)では、「菖蒲沢」と書かれており、史料が一致しています。このことから少なくとも、六代が隠れていた所が、「菖蒲谷」「菖蒲沢」と呼ばれていたことは確実です。
 では六代が隠れていた菖蒲谷とは現在の菖蒲谷と同一のものなのでしょうか。六代隠棲地は、『平家物語』の語り本系では、「遍照寺の奥、大覚寺と申す山寺の北の方」(覚一本)とし、読み本系では、「遍照寺の奥、小倉山の麓、菖蒲沢の北、大覚寺と云山寺の僧坊」(延慶本)、また『吾妻鏡』でも、「遍照寺奥。大覚寺北菖蒲沢」とあります。大覚寺の北にある直指庵の月潭が十四勝を選んで作った詩文(「直指庵十四勝」)の中にも菖蒲沢が登場します。それによると、菖蒲沢は、寺(直指庵)の裏山から一里余で、上の山は高雄と接しているとあります。江戸時代の大覚寺の「大覚寺伽藍図」にも、「菖蒲谷道 細谷」と大覚寺の北から北へ抜ける谷道が描かれています。これは明らかに現在の菖蒲谷へつながる道であります。これらのことから現在の菖蒲谷池公園のある菖蒲谷が、中・近世にも菖蒲谷と呼ばれていたことがわかります。したがって、『平家物語』を信用する限り、六代が隠れていた所が、現在の菖蒲谷であることは否定できないのではないでしょうか。
 たしかに大覚寺から見ると、菖蒲谷は非常に山奥です。しかし地図をよく見ると、現在の菖蒲谷は非常に細長い谷であり、その入口は大覚寺では無く高雄の方向に向いています。高雄には神護寺があります。神護寺文書(寛喜2年閏1月10日)でも、寺の境界の南限が菖蒲谷であることが出てきます。そうすると菖蒲谷が神護寺の旧領域内であったのは間違いはありません。高雄神護寺は、いうまでもなく文覚が中興した寺であり、六代を助命したのも文覚です。そううなると最初から六代は神護寺の庇護のもとにあったという可能性が高いと考えられます。

 北嵯峨には、もうひとつ六代御前の屋敷跡と伝承される所があります。広沢の池の西北で、六代芝という地名にもなっている場所です。六代を守った家臣、斎藤五・六兄弟の屋敷跡も伝承されています。斎藤五・六兄弟は、斎藤実盛の子息で、維盛が都落ちする時に、都に残して行く家族を守るように言い付けられました。斎藤氏の子孫は、ずっとこの地に住まわれているそうです(『嵯峨誌 平成版』)。

※史料に出てくる遍照寺は、現在の遍照寺の場所とは違い、広沢池の北側の朝原山(遍照寺山とも)の山麓、広沢池の北側から西側にかけて存在していました。その跡を示す遺構はほとんど残っていませんが、広沢池の西北岸にある小さな堂の跡だけが昔をしのばせます(安倍晴明を探せ3に、遍照寺跡の写真を掲載しています)。遍照寺の奥というと梅ヶ畑の集落にあたります。梅ヶ畑の人々は、中世から菖蒲谷に自生する菖蒲を、毎年5月5日に御所へ献上する供御人でありました。

菖蒲谷周辺地図 (国土地理院地図閲覧サービス←こんな便利なサービスがあるとは知らなかった!)

【参考文献】
『嵯峨誌 平成版』(財団法人嵯峨教育振興会 1998)
神護寺文書(『史料京都の歴史14 右京区』 1994)
『京都市の地名』(平凡社)
竹村俊則『昭和京都名所図絵 4洛西』(駸々堂 1983)
冨倉徳次郎『平家物語全注釈』



 
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