■京都の清盛塚・供養塔 |
京都の清盛塚・清盛供養塔このページでは、京都市内にある清盛塚・清盛供養塔と呼ばれる史跡を紹介します。 まず上の写真は、京都市北区にある敷地天神(通称わら天神 北区衣笠天神森町)の境内にある「清盛塚」です。京都市遺跡地図には、古墳時代後期の円墳「衣笠天神森古墳」として載っています。 近世の地誌『雍州府志』(巻10)や『京羽二重織留』(巻5)に、次のような内容が書かれています。「 衣笠山東麓にある六所明神社の南に、平清盛公の塚がある。この地を踏むと、響きがする。土地の言い伝えによると、この地に葬られた平清盛の石棺が響いているのだということだ。しかし、清盛は六波羅で薨じ、その遺骨は摂津国経の島に納められたというので、おそらく清盛の塚というのは誤りだろう」。これでもわかるように、近世の段階ですでに伝説に過ぎないと否定されています。たしかに古墳時代後期の円墳であることが判明している以上、清盛塚であるはずはありませんが、土地の伝説として残る何らかの理由があるはずなのではと、わたしは考えます。それが一体何だったのか、考えても、考えても史実が見えてきません。 下の2枚の写真は、よく知られている「平清盛供養塔」です。
左が六波羅蜜寺(京都市東山区轆轤町)のものです。この五輪塔は、造型からみて江戸時代に入ってから作られたものです。六波羅蜜寺は、平氏の本拠地である六波羅の中にある寺院です。同寺は、有名な伝・平清盛像を所蔵し、『平家物語』史跡めぐりには欠かせない場所でもあるので、清盛の供養塔があるのも納得できます。さらに妄想をつけ加えさせてもらいます。『平家物語』覚一本では、平清盛が死去し、「愛宕(おたぎ)」で荼毘にふしたとあります。この「愛宕」は、一般に愛宕念仏寺、あるいは六道珍皇寺にあてられています。しかし、六波羅蜜寺であっても決しておかしくはないのではと思います。 【参考文献】
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