■ 源義朝の最期2
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源義朝の像
源義朝の像 (湯殿跡)

 義朝がこの地で暗殺されたことは史実としても、その後の長田父子の顛末は、史実に則しているのかどうかは全く不明です。伝説と史実の接点をどこに求めるよりも、そのような伝承を伝え得る歴史的背景に興味をひかれます。
 大御堂寺の周辺には、義朝暗殺に関連する伝承地がたくさん残されています。これらの伝承地は、大御堂寺での絵解きに関わって生まれた伝承地だと推測されます。絵解きを聞いた後、ここがそうだ、あそこがそうかと人々が巡ったのではないかと思われます。
 大御堂寺には、2幅の絵解きのための掛け軸があります。本堂で住職によって絵解きが行われています。

■長田屋敷跡

 長田屋敷跡

長田忠致・景致父子の屋敷跡と伝えられる所です。大御堂寺から東へ300メートルほど離れた所にあります。現在の小字名は下高田ですが、旧字名は田中または長田屋敷といい、通称「不浄地」と呼ばれていました。

■湯殿跡(法山寺)

 湯殿跡

源義朝が襲われた湯殿跡は、野間駅の東側、田上法山寺にあります。行基によって創始された浴場があったとのことで、湯殿薬師とも呼ばれています。また湯殿跡は、上の写真のように池状になっており、かつては温泉が湧いていたとのことですが、現在は枯れています。トップ写真の源義朝像があります。

■乱れ橋

 乱れ橋

乱れ橋とは、長田屋敷と田上の湯殿との間にある小川にかかっていた橋で、傍らに、乱れ橋の碑が建っています。乱れ橋の名の由来は、主人の危急を聞き駆けつけた渋谷金王丸、鷲津玄光が、長田の兵と乱戦した所であることによるといいいます。また一説には、湯殿薬師の参詣者が多く、橋を競い渡ることによって、橋が乱れることから乱れ橋というともいわれています。

■長田はりつけ松

 長田はりつけ松

長田屋敷の南方の小山の上に、「長田はりつけ松」があります。長田父子が、義朝の墓前においてはりつけにされて嬲り殺しにされた後、その屍をここに埋めて松を墓標にしたものだと伝承されています。松は枯れてしまい、株だけになってしまいました。石標と石碑が建っていました。

■その他

わたしは訪ねることができませんでしたが、この他にも伝承地がいくつかあるので紹介しておきます。カッコ内は字名です。

※胴塚(田上)ー法山寺の裏の山頂にある五輪塔は、義朝の首の無い胴体を埋めた所だといわれています。また長田が義朝を殺した時に出た負傷者の首を集めて埋めた首塚であるとの言い伝えもあります。別に古墳塚、耳塚、仙人塚ともいわれている。

※屈谷(しゃがみだに 田上)ー現在は「さがみ」といって相模谷とも書く。長田が義朝の首を京都へ持って行こうとした時に、金王丸たちの武者が追ってくるのをおそれて、一晩中屈んで隠れていた場所といわれている。

※下馬橋(大町)ー建久元年10月、頼朝上洛の途中、大御堂寺に寄った時、付き従った者たちが下馬した場所といわれている。

※姥撻石(うばはりいし 内海と内扇の堺)ー主人の変を知った金王丸がその真偽をたまたま道で出会った老婆に聞くと、老婆は義朝はすでに死んだことを告げた。金王丸は怒って思わず老婆を殴ってしまったところ、老婆は石になったという。これを姥撻石といい、この時に金王丸が踏みつけた石を金王丸の足跡石という。

※旗捨て場(奥田)ー渋谷金王丸が騎馬で長田を追おうとしたと時、源氏の白旗を落とした場所といわれている。

※轡が池(奥田)ー渋谷金王丸が騎馬で長田を追おうとしたと時、湧き出ている清水を見て、馬に水を飲ませた場所といわれている。

【参考文献】
角川源義「『義経記』の成立」(『角川源義全集』第1巻 角川書店 1988)
『野間町史』 『御浜町誌』


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