■ 平面複合体都市・京都

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複合多面体都市・京都

 京都の町なかに生まれ育って、ずいぶんトクをしてきたような気がする。子供のころから、周囲には何でも揃っていたからである。家の北側には御所があり、遊び場には困らなかった。東を向くと鴨川の清流がおだやかに流れていた。わたしたちはじゃぶじゃぶと川にはいり、アユをすくっては歓声をあげた。森林浴がしたければ、東山まで足をのばせばよかった。中腹まで登ると、突然視界が開けて街の全景が見渡せた。わたしは、まるで征服者になったような気分でわが街の眺望を楽しんだ。文化や教育という面でもまったく不足はなかった。美術館や京都会館をはじめとする岡崎公園の文化施設群はすぐ近所だったし、国立博物館も行動範囲にはいっていた。大学を決める時なども、京都以外の学校に行こうなどとは夢にも考えなかった。
 歴史的な遺産にいたっては、まるで空気のように自然な存在であった。氏神さまは平安京建都にかかわる歴史を持つ古社で、わたしは境内で遊びながら知らず知らずのうちに平安時代の政争の歴史を学んだ。小学校の近くの公園は建武の新政の舞台となった後醍醐天皇の皇居跡だった。紫式部も足利尊氏も織田信長も坂本龍馬も、歴史の本にでてくる有名人はみんな、わたしのそばに住んでいた隣人だった。
 さらに便利だったのは、南に十分ほど歩いただけで、三条や河原町の繁華街に出られたことである。充実した内容を誇る大書店があり、そこはわたしの勉強部屋の延長になった。にぎやかなレコード店や個性的な古書店、量販の電機店を訪ね歩くのも楽しみのひとつだった。何を買うのにも、不便など感じることはなかった。大学にはいってからは、お酒を飲み歩くようになった。終電の時間を気にする友人たちを尻目に、わたしは深夜まで飲みつづけた。這ってでも帰れるところに家があるのは、本当にありがたいことだと思った。ただ、二日酔いになる確率がかなり高いのだけは困りものだったが。
 京都人は京都のことしか知らない、とよく批判される。しかし、考えてみるとそれも当然かもしれない。必要なものはすべてこの都市の中に揃っており、よその土地に出かけることなど無用だったのであるから。今でもわたしは、猫も杓子も東京をめざす風潮を一種の驚きをもって見つめている。わたしたちにとっては、京都こそがひとつの完結した宇宙だったのである。
 わたしにしても、決して他の土地に無知なわけではない。現代の巨大都市としての東京や大阪の魅力は充分に承知している。しかし、人間の生活には、歴史の遺産や自然とのふれ合いも必要なのである。一方、自然に囲まれた農村の美しさや、ひなびた小都市の文化の奥深さもよく知っている。しかし、充実した書店がないというその一点だけをとっても、やっぱり住むなら都、と思ってしまうのである。
 京都の魅力、それは、この都市がさまざまな要素の複合からなりたつ多面体だというところにある。ひとつひとつの要素だけをとってみるならば、たしかに京都よりもすぐれた土地はたくさん存在する。しかし、大事なのは、京都には人間に必要なあらゆる要素がバランスよく備わっているということなのである。たとえていうなら、京都は多面的に美しくカットされた宝石である。それに比べると他の都市は、産業はあるが歴史と文化に欠けるとか、自然には恵まれているが近代的都市設備が整っていないとかで、まるで四角四面に荒削りされただけの未研磨の原石のように見えてしまうのである。
 この特質を理解しておかないと、とんでもない誤まった京都観が生まれることになる。京都を単なる古都だとか観光都市だとか考えるのはその最たるものであろう。わたしはそうした観点からの議論を聞かされるたびに、論者の認識のあまりの底の浅さに憐れみすら覚えてしまう。それは、せっかくの多面体を一面だけからしか見ないという愚をおかしているからである。
 複合多面体都市、京都。わたしにとってこの都市はやはり、「永遠の都」というにふさわしい存在なのである。

(『アサヒグラフ』「京都別冊」)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



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