■ 城壁なき要塞都市〜平安京の境界祭祀

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城壁なき要塞都市〜平安京の境界祭祀

大将軍八神社の神像
大将軍八神社の神像

 平安京は、そのお手本となった中国の都城と違い、周囲に城壁をめぐらさない。異民族の脅威をほとんど感じることのなかったこの都市は、せいぜい低い土堤・狭い溝や築地塀程度の設備を持つにすぎなかった。外敵の攻撃に対してまったく無防備な都市、それが平安京であった。しかし、本当にそれでよかったのだろうか?
 平安時代において、この世界の中心に位置づけられていたのは、天皇であった。朝廷は平安京で様々な祭祀をとりおこなったが、その大きな目的のひとつは、天皇の神聖性を守り、またその天皇のいます聖なる都を邪悪な神から防衛することであった。律令国家の論理構造からすると、天皇の神聖性が犯されることは、すなわち国家の崩壊に直結しかねない大事であったからである。
 『延喜式』には、平安京の周囲でおこなわれたこうした祭りのことがしるされている。まず、 "首都圏"である山城国や畿内諸国の周囲では『畿内堺十処疫神祭』という祭りがおこなわれた。邪悪な鬼神から平安京を守るための第一次防衛線がこれである。京都の周辺には、この防衛線上に配置された前線基地のあとが今も数多く残っている。山城と河内との境界には石清水八幡宮があるし、近江への出口である逢坂山には蝉丸神社がある。丹波へ抜ける道筋には、老ノ坂の首塚大明神(酒呑童子首塚)や、亀岡の篠八幡宮境内の疫神社がある。京都という土地の不思議なところは、神社が残るのみならず、こうした祭りを今もなお厳然と伝えていることである。石清水八幡宮で1月18日の夜におこなわれる『青山祭』がそれである。この祭りもまた、国境において鬼神をシャットアウトするためのものだったのである。
 ここでいう鬼神のうち、もっとも恐ろしいものが疫病の神であったことはいうまでもなかろう。最近の研究によると、かの有名な大江山の鬼・酒呑童子の正体も、実は疫神であったという。鬼の舞台となる大江山は、一般に信じられているように京都府加佐郡大江町の大江山ではなく、山城と丹波の境、現在の京都市と亀岡市の境界近くにある大枝山のことである。つまり、大江山の鬼の説話とは、平安京に猛威をふるって人々を苦しめた疫病の神を、京の入り口で都の勇士が退治するという物語であったわけである。
 平安京に第二次の防衛線をめぐらしたのが、京の四隅でおこなわれた『道饗祭』という祭りであった。この祭りによって、京全体を目にみえない防壁で包みこみ、侵入する鬼神を撃退しようというわけである。ほかの都市の場合でも、長岡京では東北と西南の隅から大規模な祭祀遺跡が発掘されているし、近江国府でもその四隅にそれぞれ神社(建部大社など)が祭られている。四隅に祭場をおいて都市の安寧をはかるのは、わが古代においてしばしば見られたことであったようである。
 平安京の東北の隅にあたる場所には、『幸神社』(上京区寺町通今出川上ル西入ル)という神社があり、その境内には疫神社もある。今はこういう漢字をあてるが、これはサイの神、すなわち道祖神の社である。道祖神は道の神・境界の神であり、疫神の侵入をさまたげる役割をもつ神であった。つまり、この神社は平安京の東北隅でおこなわれた境界祭祀のなごりを今にとどめるものなのである。
 東北の方角とは、陰陽道でいう鬼門、すなわち鬼神たちが現世に出現するための出入り口にあたる。鬼門を防衛するために、京の東北にそびえる比叡山には延暦寺が置かれ、そのふもとには泰山府君という道教の神を祭る赤山禅院がある。現在の京都御所でも、東北の角の築地塀だけはL字形にへこましてあり、その屋根裏には鬼門除けの猿の木像を祭っている。京の四隅のうち、最重要視されたのがこの方角であり、そのかなたには鬼神たちの住まう異界があると信じられたのである。
 それでもなおかつ侵入した鬼神に対しては、第三次の、そして最後の防衛線がひかれる。天皇の居住する大内裏(平安宮)の四隅でおこなわれた『宮城四隅疫神祭』がこれである。北野天満宮の近くにある大将軍八神社(上京区一条通天神西入ル西町)が、今にそのなごりを伝えている。これもまた、天皇とその居所を鬼神から防衛し、清浄でケガレのない状態に保つための装置であった。
 平安京は城壁をもたない無防備な都市であった。しかし、実はこの都は、目にみえない外敵をふせぐための観念の防壁を二重三重にめぐらした、堅固な要塞都市だったのである。

(雑誌『同朋』所収)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



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