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都の中心

平安京復元模型より平安宮部分
平安京復元模型より平安宮部分

 平安京の心臓部であったのは、京の中央北端に造られた「大内裏(平安宮)」の部分です。東西1146メートル、南北1372メートルの範囲の中に、天皇の住まいである内裏をはじめとして、国家の重要儀式に使われる朝堂院(ちょうどういん)、公式の宴会場であった豊楽院(ぶらくいん)、さらには各種の役所群といった建物群が建ち並んでいたのです。なお、現在の京都御所は14世紀に定められた臨時の内裏が江戸時代に拡張されたもので、平安時代の内裏とは場所が異なっています。
 朝堂院の正殿が、平安宮の中でも最も大事な建物であった大極殿(だいごくでん、朝堂院の正殿)です。千本丸太町の西北角には大極殿跡を示す説明板がありますし、その奥の児童公園には大きな石碑が立っています。しかし、大極殿の遺構はその後の都市開発によって削られてしまい、ほとんど残っていません。現在までに発掘調査で確認されているのは、大極殿の南側の階段の下端や、大極殿の周囲にとりつく廊下の基壇の一部といった遺構だけしかありません。しかし、こうした断片的なデータや文献史料の記載を総合することにより、大極殿の位置や規模を確定することがようやく可能になってきました。
 朝堂院と並ぶ重要建物群であった豊楽院に関しては、中京区旧丸太町通七本松東入ルで、その正殿である豊楽殿(ぶらくでん)の遺構が発掘調査されています。調査の結果、豊楽殿は東西46メートル、南北23メートル(基壇の大きさ)の壮大な建物であることが判明しました。この遺構の付近は現在も若干高くなっており、豊楽殿の遺構が良く残っていることが地表面からでもわかります。
 天皇の住居である内裏については、その正門である承明門の北側溝、内裏をとりまく廊下(回廊)の基壇のほか、いくつかの殿舎の雨落溝が確認されています。内裏は平安京創設とともに造られてから鎌倉時代の初めにいたるまでに、実に18回も火事にあい、そのつど再建をくりかえしています。最初の火事は天徳四年(960)で、発掘調査で出土する焼け土がこの時の火災のものすごさを語っています。
 内裏の再建といっても、全部が全部新しく造り直すというわけではありません。平安時代末期(12世紀末)に再建された内裏の回廊の基壇が発掘されていますが、ここに使われた石はすべて寄せ集めの再利用品で、ほとんど角が残らないまでにすり減っているものばかりですし、また石どうしもまったく噛み合っていません。さらに、基壇の外側には雨落溝がめぐるのが普通ですが、これも造られていないのです。つまり、前の建物の部材や石であっても使えるものはどんどん使い、また省略できるところは大胆に省略して費用と工期を節約するというのが、この時の工事の方針だったわけです。財政難の中での苦肉の策と見るべきか、それとも平安時代の人々の意外な合理主義のあらわれと見るべきか。私は、後者の方が歴史の見方として面白いと思っていますが、どうでしょうか。

(京都新聞連載「土の中昔むかし—考古学は語る—42」)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



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