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平安京とコンピューター

平安京復元模型を上空から見る
平安京復元模型を上空から見る

 現在の京都の町が、古代の都である「平安京」の後身であることはだれでも知っています。それでは、この平安京の誕生日はいつだったか、皆さんはご存じでしょうか。
 それは10月28日です。桓武天皇が新しい都の誕生を正式に宣言したのが、延暦13年(794)のこの日だったからです。なお、天皇が平安京に引っ越してきたのはこれより6日前の10月22日であり、この日は現在でも平安神宮の時代祭として祝われています。
 平安京跡の発掘調査は、京都の市内のあちこちで盛んに進められています。しかし、平安京の考古学的な研究の前には、大きな障害が横たわっているのです。それは、平安京の遺跡のすべてが、現在の京都の市街地と重なってしまっているということです。奈良の都平城京のように、その主要部分の多くが近年まで田畑として残されていたのならば、土地を買い上げて公園にすることも、また大規模な発掘調査をおこなうことも無理ではないでしょう。しかし、家が建ち並んでいる平安京の跡では、広い面積を全面的に掘るということはなかなか望めません。それに、1200年間も人間が住み統けた京都では、平安時代の遺構は後の時代の遺構によって壊されてしまっていることが多いのです。
 しかし、平安京の研究には、平城京や長岡京には見られない大きな強みもあります。それは、平安京については多数の文献史料が残っており、それと考古学の成果とを照らしあわせながら研究を進めることができるということです。たとえば、京全体の都市プランを復元するという研究を考えてみましょう。平城京の場合、こうした研究は田畑の畔道に残っていた奈良時代の道路の痕跡を拾い集めることから始めねばなりません。一方、平安京の場合には、平安時代末期にできた平安京の見取り図の写しも伝わっており、それを見ただけでも京の全体像をほぼ想像することができます。さらに、平安時代中期にできた法典である『延喜式』には、都の各場所の寸法がこと細かに書いてあるのです。この記事には多少の矛盾もありますが、とにかくこれをもとにして計算すると、平安京の大きさは南北17510尺、東西15000尺であることがわかります。
 ただ、こうした文献史料に書かれた平安京の姿を実際の地図上にあてはめようとするには、平安時代の「尺」が現在の何センチメートルにあたるかを確定しなければなりません。ここで考古学の出番です。発掘調査で確認される平安京の道路の遺構を、都市プラン復元の基礎資料にしていくのです。最近ではこうした研究には、コンピューターがフルに活用されるようになりました。平安京跡のあちこちで発掘される道路遺構を精密に測量し、そのデータをデジタル化してコンピューターに入力します。そして、こうした考古学的データと『延喜式』に書かれた寸法が一番良く合致するような数値をコンピューターに計算させるのです。こうした研究の結果、平安時代の一尺を現在の29.84センチメートルと考えると、考古学の成果と文献史料の記載とが最もよく合致することが推定されることになりました。それとともに、平安時代の測量技術が、現在の水準からみても十分に通用するほどのすばらしい精度をもっていたことも確実にわかってきたのです

(京都新聞連載「土の中昔むかし—考古学は語る—41」)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



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