■ 木津川と万葉集

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木津川と万葉集

 今は昔、1300年ほど前のお話です。
 現在の京都府木津町から山城町にかけての街道を、一組の夫婦が歩いていました。 (木津川)を渡ろうとしましたが、深みに足をとられ、夫の着物はびしょ濡れになってしまいます。とぼとぼと歩くふたりを、馬に乗った男たちがさっそうと追い抜いていきます。うらやましそうに馬を眺める夫の姿に、妻は心を痛めます。「あなた、私の持っている鏡と蜻蛉領巾(あきつひれ=ひれとは細長いスカーフ)を市場へ持っていって馬を買ってください。こんなもの、私には不似合いですから」。夫は驚きます。鏡とスカーフは、妻の母が残してくれた大事な形見の品だったからです。「いや、馬なんか買ってしまったら、私は楽だとしてもお前は歩いてついてこなくちゃならない。いいじゃないか、たとえ石を踏んでも、私たちは二人で一緒に歩いていくことにしよう」。
 これは、わが国最古の歌集である『万葉集』(巻13)に出てくる歌を書き直したものです。庶民の夫婦の細やかな愛情が伝わってきて本当にほほえましくなります。彼らが夫婦者の行商人であったことは、戦前に早稲田大学の 教授が指摘していますし、最近では同志社大学の森浩一教授もこれに注目されています。つまりこの歌は、男が外で働いて女は家を守るというのではなく、夫婦が共同してひとつの仕事にたずさわるという生活のありかたが古代の庶民にも存在したことを物語ってくれているのです。
 鏡とスカーフが馬一頭と交換できるというのも興味深い点です。馬は今の物価でいうならば高級自動車といったところでしょうから、鏡の値打ちはやはりたいしたものです。日本人の鏡に対する関心は、古墳時代後期(6世紀)にいったん低下します。その後、飛鳥時代(7世紀)になって中国の隋・唐の文化が伝わってくるとまた、盛んに鏡が使われるようになります。たとえば、奈良時代の (奈良市)は、1275枚という大量の鏡を所蔵していたことが知られています。
 この話にでてくる女性の持っていた鏡は、はたしてどんな形のものでしょう。庶民の持ち物ということで、日本製の縁が花形になった小さな六花鏡や八花鏡だったのでしょうか。もしかすると、不釣り合いな高級品ということで、中国から輸入された海獣葡萄鏡(獅子や鳥・獣、葡萄唐草などの模様で飾った鏡)だったのかもしれません。
 川に橋がなく、歩いて渡ったというのも、古代の交通事情を考える上で重要です。渡し船はあったかもしれませんが、いつでも気軽に使えるわけではなかったのでしょう。木津川に橋や渡し船が整備されるのは、八世紀中葉に高僧行基が川のほとりに「泉橋寺」(木津町)を建立してからのことだったのです。
 『万葉集』は古代の情報の宝庫です。詠み手は貴族階級から庶民までにおよび、また地理的な範囲も都だけではなく全国各地にわたっています。私たちは『万葉集』をじっくりと読み、そこに考古学や地域史の観点を加えることにより、古代人の考え方や暮らしの実像を浮かびあがらせていくことができるのです。

(京都新聞連載「土の中昔むかし—考古学は語る—36」)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



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