■ 人々の祈り

▲home 


人々の祈り

人面墨書土器
人面墨書土器

 平安京ができてから140年ほどたった天慶元年(938)のことです。都の庶民の間で、不思議な宗教が爆発的に流行しました。人々は、木切れを荒削りにし、男女の神の像を作ります。髭づらの顔で頭に冠をかぶり、衣服は真っ赤、さらに下半身を丸出しにするという奇怪なものです。そして人々は、道路の辻々に祭壇をつくり、熱狂的にこの神を祭ったのです。この神像は、「道祖神(どうそじん)」と呼ばれる神をあらわすものだと考えます。この神は「塞(さい)の神」とか「フナドの神」という別名を持ち、境界線を守り悪神を追い出すと信じられていました。平安京の民衆は、こうした神に祈ることによって疫病や自然の災害から逃れることを願ったのでしょう。
 京都市右京区にある広沢一号墳という古墳は、平安時代にあばかれたことが知られています。不思議なのは、石室におさめられていた石棺が粉々に砕かれたばかりか、その一片に、歪んだ大きな鼻と分厚い唇を持つ奇妙な像が彫刻されていたことです。わたしはこれもまた道祖神をあらわしたものだと考えています。古墳の中のケガレが現世に拡散しないことを祈ったものだったのでしょう。
 現在、JR京都駅のあるあたりは、平安時代前期にはまだ人家も少ないさびしい場所でした。ただ、ここを流れていた自然の川の跡からは、色々な祭祀遺物が出土します。人々は町はずれのこうした川に集まり、様々な祭りをおこなっていたのです。まず目につくのは、小型の鉢に墨で奇妙な顔を描いた「人面墨書土器」です。これは、人々がこの中に自分のケガレを移しこみ、呪文とともに川に流したものだと考えられています。江戸時代の呪術の本にも、これと良く似たまじないの方法がのっています。また、薄い木の板を切り抜いて人の形を作った、「人形代(ひとかたしろ)」と呼ばれる遺物があります。釘を打ち込んで「呪いの藁人形」のように使われることもありましたが、多くはやはりケガレを祓うためのものだったようです。
 注意しておきたいのは、人面墨書土器が一定の規格を持つ特別の品で、描かれた顔にも手慣れた職人技が感じられることです。私は、民衆が恒常的に祭祀に訪れるこうした川のそばには、さまざまな祭祀の道具を売る専門の商人がいたのではないかと考えています。人々はそこで祭祀具を買い求め、祈りをこめながら呪文を唱えて川へと流したのではないでしょうか。
 また、土で作った小さな可愛い馬(土馬)も、よく出土する祭祀遺物です。土馬については従来、雨乞いの道具であるとする意見が有力でした。ただ、土馬の特徴は、すべてが足を折られた状態で出土することです。ここに注目した水野正好氏(奈良大学学長)は、土馬は実は疫神の乗物と考えられたものであり、その足を折ることは疫神の行動を封じて疫病から逃れることをあらわす、と考えておられます。
 平安京で出土する様々な祭祀遺物は、古代の都市に暮らした人々の切々とした祈りを伝えてくれているのです。

(京都新聞連載「土の中昔むかし—考古学は語る—43」)

【関連記事】
謎の人面像

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



▼平安京よもやま話index
(C)平安京探偵団