■ 鋪装された道路

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鋪装された道路

五条大路に残る轍と足跡
五条大路に残る轍と足跡
(『平安京右京六条四坊九町・五条大路』京都文化博物館調査研究報告書第8集より)

 今はもう、かなりの田舎に行っても地道は少なくなってきた。いつのまにか、日本中の道路という道路はアスファルトとコンクリートで覆いつくされてしまったのである。しかし、日本はもともと舗装道路の発達が悪い国であった。道路の整備はきちんとやったにもかかわらず、道路の舗装には不思議なほど不熱心だったのである。
 この理由は、わが古代の交通手段に「走る車」がなかったところにある。ローマ帝国の場合には、石畳で舗装された軍用道路を、馬の引く重戦車が轟音をたてて駆け抜けていった。日本では、車といえば牛車(ギュウシャおよびギッシャ)か人力の荷車であり、速く走ることを目的とする車はなかった。これでは道路の舗装に目が向かなかったのもやむをえまい。
 平安京の中の街路は、基本的には地道のままであった。雨がすこしたくさん降ると、たちまち道はぬかるみになった。平安京の西端に近い右京六条四坊九町の北側の発掘調査では、平安時代前期の五条大路の道路遺構が良好な状態で検出されている。道路の真ん中には深くえぐられた細い溝が50本以上も刻まれていた。これは明らかに牛車の轍の跡である。そのまわりには牛の足跡も400個以上が見つかっている。雨の後のひどいぬかるみの中を、牛があえぎあえぎしながら車を引っぱっていった様子が目に浮かぶようである。
 もちろん、どの道路もぬかるみであったわけではない。交通量に応じて、自然に路面が踏みしめられることにもなれば、さらには路面を固く叩き締めて簡易な「舗装」をほどこすことにもなる。発掘調査でも、現代の道路の下に何面もの路面遺構の重なりが確認されることがよくある。地下鉄烏丸線の建設にともなう発掘で検出された烏丸小路の道路遺構などは、平安時代以降の数十面の路面が重なりながら現代の道路に続いていた。
 平安京の北端に近いところに、鳥羽・崇徳・近衛三帝の御所となった土御門烏丸内裏(土御門大路南、烏丸小路西)がある。発掘調査では、この北側の土御門大路(平安時代後期)が路面に美しい砂利が敷きつめられていたことが確認されている。これがもう一段度を越すと、小一条院(勘解由小路北、東洞院大路西)の南側の勘解由小路になる。院の中にある神社へ高貴な人々が参詣するから、この道路だけは特に石畳の舗装がおこなわれていたと伝えられているのである(『大鏡』)。高級住宅の周囲では道路もそれなりのお化粧をしていた、ということになるのかもしれない。

(朝日選書『平安の都』所収)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。



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