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都市

  日本の都市の歴史がどこからはじまるのか、これはいささかむつかしい問題である。普通には、整然とした碁盤の目状の都市プラン—条坊制—をもつ都市の開始をもってわが古代都市のはじまりとしている。しかし、梅棹忠夫氏の説くように、都市の本質は都市プランの計画性や人口の集住よりも、情報センターとしての性質にある。この考えにもとづくならば、都市の開始はさらにさかのぼらせてもかまわないのである。例えば、弥生時代の佐賀県吉野ヶ里遺跡の集落なんかも、その時代としては充分立派な都市であるということもできなるのではなかろうか。
 さて、条坊制をもつ、いわば都市らしい都市(定型化した都市)の出現は、天武天皇が造営し始めた未完成の都、「新城」であったと考えられる。天武の皇后であり、その崩後に即位した持統天皇は、「新益京」という新たな都を造営するが、これは夫・天武の見果てぬ夢を引き継ぎ、「新城」を発展させて造りあげられたものであったらしい。なお、「新益京」は、その中心に「藤原宮」という宮殿が配置されたため、通常は「藤原京」という名で呼ばれている。
 その後の都城、例えば元明天皇の平城京、聖武天皇の恭仁京、桓武天皇の長岡京などと平安京を比べてみると、そこには理想的な都市を求める試行錯誤の跡があきらかに見てとれる。もっとも異なっている点は、都市を形づくる単位である、「町」とか「坪」という方形のブロックの形だ。平安京の町は、一辺40丈(119m)四方の整然とした正方形であった。それに対し、平城京の坪は、正方形のものもあれば長方形のものもあり、大きさがてんでばらばらだ。平城京では、大路に面した坪は狭く、小路に面した坪は広かったのである。これが長岡京になるとかなり整理されているが、同じ都市の中に平城京型の不整形のプランを施行した部分と、平安京型の統一したプランを実施した部分とが混在していたらしい。
 都市全体の形や、都市の中核となる大内裏の形にしてもそうしたことがいえるかもしれない。平城京では大内裏の東側に「東宮」と呼ばれる張り出した部分がある。また、都市全体についても、左京の東側(外京)や右京の北側に張り出した部分があり、左右対称の原則が歪められている。これに対して平安京は、大内裏も京全体も、共に整然とした長方形に設計されているのである。
平安京、これこそは、わが古代都城の理想形を極めた都市だったのである。

(朝日選書『平安の都』所収)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。


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