■平安京の繁華街

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平安京の繁華街

一遍上人絵伝
一遍上人絵伝

  「市の聖」と呼ばれた僧がいる。平安京の市を主な舞台として布教活動を続けた空也上人のことである。民衆の間にとびこみ、「南無阿弥陀仏」の名号をとなえながら教えを問いた。その布教の拠点が、平安京の東市に築かれた「市屋道場」である。鎌倉時代に入り、時宗の創始者である一遍上人はこの市屋道場の跡で踊り念仏を挙行している。空也の名前とともに、この地は念仏行者の聖地のひとつとして記憶されていたのである。
 平安京においては、左京と右京にそれぞれひとつづつ、市が設置されていた。東市と西市である。東市は現在の西本願寺のあたり、西市は西大路七条の東北方付近にあたっている。計画都市・平安京では、このふたつの官営市場のほかには市は認められていなかった。ちょっと考えると合理的だが、実際はこれほど不便なことはない。市が街の南部に設けられたため、平安京の北の端に住む人などにとっては、買い物はほとんど一日がかりの大仕事になってしまう。しかも、東西の市のうち、好きな時に好きな方で買い物ができるわけではない。一月のうち前半の半月は東市が、後半の半月は西市が交代で営業するように定められていたからである。さらにややこしいことに、東市と西市では扱う商品の種類が違っていた。布・麦・木綿・木器・馬など五十一種は東市の、土器・牛・綿・絹・麻・味噌など三十三種は西市の専売品とされ、両市共通品目は米・塩・針・魚・油など十七種にすぎなかったのである。さすがにこんながんじがらめの規制は実状にあわなかったと見えて、振り売りの行商人がこの隙間を埋めていくことになるし、東西市以外の場所にも商店街が登場することになる。錦小路という通りはもともと「具足小路」と呼ばれていたのを平安時代中期に改称したらしい。武具を売る店や錦を売る店が集まっていたことをあらわすのであろう。
 市場に集まるのは、商人と買い物客だけではない。人混みをあてにして、またさまざまな人々が集まってくる。空也上人のような宗教者はもちろん、人のふところを狙うカッパライや詐欺師、あわれみを求める物乞い、ガール・ハント目当ての男たち、人目を引きたさにわざと派手な格好でのし歩く若者たち。見せしめのための罪人の処刑が市の中でおこなわれることもあるが、そんな日には野次馬でさらに雑踏は深まったことであろう。いつの時代も、マーケットに人が集まることには変わりはない。平安京の繁華街、それが東西の市だったのである。 

(朝日選書『平安の都』所収)

※このコンテンツでは、平安京探偵団団長・山田邦和の過去に発表した文章を掲載しています。


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