■源頼光の妖怪退治1

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鬼マック

【解説】2003年2月および同年4月、東京・渋谷に所在する国立能楽堂は源頼光の妖怪退治伝説をテーマとするふたつの能、「大江山」と「土蜘蛛」の公演をおこなった。私はその機会に、国立能楽堂の機関誌に源頼光伝説についての解説を依頼され、「酒呑童子の大江山」と「土蜘蛛伝説と源頼光」の2編の論を執筆した。前者は高橋昌明教授の研究に学びながら酒呑童子の本拠と伝える大江山の位置問題を論じたものであって、とりたてて目新しい視点があるわけではない。しかし、添付した地図はいささか役立てることができるのではないかと思う。後者は東京国立博物館蔵『土蜘蛛草紙』の物語を読み説いたもので、従来まったく論じられてこなかった大胆な仮説を提示することになった。ただ、掲載誌がいささか特殊であるため、必ずしも多くの人の目にとまるということはなかった。そこで、ここに再録し、大方の御批判を仰ぐことにしたいと思う。

(山田邦和)

酒呑童子の大江山

大江山

 日本の鬼といえば、まずは大江山の酒呑童子ということになる。酒呑童子の伝承は、室町時代初期に描かれた香取本<かとりぼん>『大江山絵詞』(逸翁<いつおう>美術館蔵)、室町時代中期の『酒伝童子絵巻』(サントリー美術館蔵)、宮増<みやます>作(伝世阿弥作)の謡曲『大江山』、御伽草子の『酒呑童子』などにより、あまねく知られているからである。また、現代の映画や文学作品にも酒呑童子はしばしば主役として登場している。まさに、酒呑童子こそは日本の鬼の代表格だといってもよいだろう。
 酒呑童子が本拠地としていた大江山は、一般には丹後国(京都府加佐郡大江町)と丹波国(福知山市)の境界にそびえる標高832.6mの大江山(千丈ヶ嶽)だと信じられている。たとえば、御伽草子の『酒呑童子』では、鬼の岩屋のある大江山は「千丈嶽」と呼ばれている。また、謡曲『大江山』の中で酒呑童子は「天の橋立与謝の海。大山<おほやま>の天狗も。われに親しき友とぞ知ろしめされよ」と語り、さらには「丹後丹波の境なる。鬼が城も程近し」と言っているのである。天橋立は京都府宮津市にある名高い景勝地、与謝の海は丹後地域に面した日本海の古称である。大山は伯耆(鳥取県)の大山<だいせん>か、または酒呑童子が住む千丈ヶ嶽そのものか、どちらかである。さらに、鬼が城とは大江山千丈ヶ嶽の南方約14km、福知山市と大江町の境界にそびえる鬼ヶ城山だと推定できる。つまりこれらの場合のいずれも、酒呑童子の住処である大江山は、丹後丹波国境の大江山千丈ヶ嶽そのものなのである。
 しかし奇妙なことに、謡曲『大江山』の中には、酒呑童子の住む大江山を千丈ヶ嶽とは考えにくい記述が散見している。たとえば、ワキ源頼光は「秋風の。音にたぐへて西川や。雲も行くなり。大江山」と謡い、そこへの順路を「まだ夜のうちに有明の」「月の都を立ち出でて。行く末問へば西川や。波風立てて白木綿の。御祓も頼もしや鬼神なりと大君の。恵みに漏るる方あらじ。ただ分け行けや足引の。大江の山に着きにけり」と言っている。ここでいう西川とは平安京西郊を流れる桂川のことであり、これを読む限りでは大江山が桂川から遠く離れている印象は受けないのである。そもそも、これがもし丹後丹波国境の大江山千丈ヶ嶽のことであるとするならば、それと桂川とがセットで語られる理由は何ひとつないはずである。また、酒呑童子自身も自らの経歴を語る中で、比叡山を追い出され全国の霊山を放浪したあげく、「都のあたり程近き この大江の山に籠り居」るようになったと言っている。この場合も、京都から直線距離で80kmも離れた大江山千丈ヶ嶽を指して「都のあたり程近き」というのはいくらなんでも不自然にすぎよう。さらに、酒呑童子は「ここは名を得し大江山。生野の道は猶通し」とも語っている。「生野」が山陰道の要衝である丹波北部の地名(現・京都府福知山市生野)であることは、百人一首にも採られた小式部内侍の「大江山 生野の道の遠ければ まだふみもみず 天の橋立」の歌によってよく知られている。酒呑童子によると大江山から生野へはまだまだ遠く、また小式部内侍によると大江山→生野→天橋立という地理的順序が示されているのであるから、これらは大江山千丈ヶ嶽の表示ではありえない。
 つまり、謡曲『大江山』には、京都から遙かに離れた大江山千丈ヶ嶽のことを指していると見られる部分と、そうではなくて都から桂川をへだてて都にすぐ近い山をイメージした部分が奇妙に混在しているということになる。もちろん文学作品に誇張や歪曲があるのは当然であり、それにいちいち目くじらを立てるわけにはいかないのであるが、それにしても地理をよく知る者にとってこの空間認識の歪みは決して気持ちのいいものではない。
 それでは、謡曲『大江山』にはなぜこのような矛盾が含まれているのであろうか。実は、平安時代から鎌倉時代の京都の人々にとって「大江山」といえば、丹後丹波国境の大江山千丈ヶ嶽ではなく、山城国と丹波国の国境の大枝山<おおえやま>(京都市西京区)を指すのが常識だったのである。天台座主慈円大僧正の「大江山 かたぶく月の 影さえて 鳥羽田の面に 落つる雁がね(大江山に傾く月の光も冴えて、都の南郊の鳥羽の地の田に降りる雁の姿がくっきりと見える)」(『新古今和歌集』巻第5 503番)という歌は、まさに平安京の西郊の大枝山を詠んだものであった。そして、酒呑童子の伝説も、もともとはこの大枝山を舞台にしたものであった可能性が高い。現在も、大枝山をくぐりぬける老ノ坂<おいのさか>の旧街道ぞいには直径約30メートル、高さ約7メートルの円墳状の塚が残り、そこには酒呑童子の首を埋葬したと伝える「首塚大明神」の社が祀られている。ただ、この大枝山は標高がせいぜい400m程度の低い丘陵にすぎない。そこで、酒呑童子伝説の肥大化とともにその居所である大江山のイメージも深山幽谷へと姿を変え、都からも遠く離れた大江山千丈ヶ嶽へと移動していったのである。しかし、謡曲『大江山』が誕生した室町時代は、酒呑童子の大江山が都近くの大枝山からはるか遠くの大江山千丈ヶ嶽へと移行する転換期にあたっていた。このことにより、謡曲『大江山』は基本的には大江山千丈ヶ嶽を舞台としながらも、もともとの大枝山のイメージの痕跡を完全には払拭しきれずにあちらこちらに残してしまったのである。

 こうした酒呑童子伝説とその中での大江山イメージの変遷過程を見事に解明したのは、神戸大学の高橋昌明教授の画期的な研究『酒呑童子の誕生—もうひとつの日本文化—』(中央公論社、1992年)であった。高橋氏の研究の中でさらに重要なのは、酒呑童子の正体を解明したことである。すなわち、従来は酒呑童子のモデルを、山賊であるとか、落武者であるとか、鉱山労働者集団であるとか、さらには漂着した西洋人であるとか、さまざまなものに求める憶測がなされてきた。しかし、高橋氏によると都を恐怖に陥れた鬼・酒呑童子とは、平安京に猛威をふるった伝染病(特に疱瘡)の神そのものであったという。すなわち、大江山の鬼退治の説話とは、平安京に猛威をふるう疫神を京の入り口で都の勇士が撃退する物語であったということになる。さらに、その舞台として選ばれた大枝山こそは、「古代・中世を通じ『鬼気』のより来る場所として、同時にその侵入をさえぎり、都を頂点とする日本国の秩序や安寧・清浄を確保する境界」であったというのである。
 日本古代国家にとって、平安京は天皇の居住する聖なる空間であった。人々はこの神聖な都を守護するために、京の周辺においてさまざまな祭祀をとりおこなった。山城国や畿内諸国の周囲の「畿内堺十処疫神祭<きないさかいじゅっしょえきじんさい>」、京の周囲の「京城四隅疫神祭<けいじょうよすみえきじんさい>」や「道饗祭<みちあえのまつり>」、天皇の居住する大内裏(平安宮)の四隅の「宮城四隅疫神祭<きゅうじょうよすみえきじんさい>」などである。これらはいずれも、災厄をもたらす目に見えない外敵=鬼神から都を守ることを目的としたものであった。大江山の酒呑童子の伝説の底流には、平和と安寧を求める古代・中世人の切実な願望が流れていたのである。

(山田邦和)
       (『国立能楽堂』平成15年2月号〈第234号〉掲載)


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