■ 小野妹子の墓 1
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小野妹子の墓

小野神社

 小野毛人の墓は、岩倉盆地の西端、悲運の皇子・早良親王(さわらしんのう 桓武天皇の皇太弟、祟道天皇と追尊)を祀る祟導神社の裏山にある飛鳥時代の墓です(写真上)。
 小野毛人は、遣隋使で有名な小野妹子の子どもにあたります。1613年(慶長18年)石室が発掘されて金銅の墓誌が発見されました。墓誌はその後、再埋納と発掘をくり返えし、1941年にみたび発掘され、現在は京都国立博物館で見ることができます。
墓誌の表面には「飛鳥浄御原宮治天下天皇 御朝廷太政官兼刑部大卿位大錦上」裏面には「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と記されています。丁丑年は西暦677年に当たります。ただし銘文の表現から、持統朝(687〜697)以後に追納されたものとする説が有力です。
 この地は山城国愛宕郡小野郷にあたり、小野氏の本拠地のひとつでした。
 祟導神社の境内には、摂社・小野神社があります(写真下右)。『延喜式』神名帳に載っている「式内社」ですが、現在の社は大正5年(1915)に再興されたものです。小野妹子・毛人を祀っています。注目して欲しいのは、祠の台石に平安時代の軒丸瓦がはめこまれていることです(写真下右)。

 ラン2はまだ祟導神社に行ったことがなかったので、近くまで来たついでに寄ることにしました。祟導神社は、鬱蒼とした木々が残り、晴れていたにも関わらず薄暗く、ひんやりとした雰囲気です。

団長>ここまで来たなら小野毛人の墓に行かなきゃ。
ラン>え〜〜〜っつ!だってあたしサンダル履きやよ。こんな急な山道登れへんて。
団長>行けへんの?後悔するよ〜。
ラン>はい、はい。登りますよ。
団長>それでこそ平安京探偵団や。

 小野毛人墓への道は、神社本殿の階段下の横から、裏山へ急な坂道を登っていきます。
最近整備されたとのことですが、やはりサンダル履きはやめた方がいいです(反省)
しばらく登ると見晴らしがよく岩倉盆地が一望できます。ここに墓を造ったのもうなずけます。

ラン>えらい急な山道やねえ。よくこんな所に墓があることを見つけはったわ。
団長>夢のお告げで見つけはったんやよ。
ラン>ほえ?夢のお告げ?ミステリーやわあ。
団長>うん。江戸時代(慶長18年 1613)に、夢の知らせに導かれた村の人たちが山の中を探して石室を発見し、その中から金銅製の墓誌を発掘したんや。京都国立博物館で見たことあるやろ? ほら着いたよ。
ラン>石碑が建てられているんやね。
団長>たしか内藤湖南博士の書だったと思う。
ラン>読む元気ないわ。お茶は持っくるべきやねえ(ぐったり)
団長>せっかくやから「おかいらの杜」へも連れてったろ。さあ行こう!
ラン>えっ? 何、それ何? 何?

 祟導神社を後にして三宅八幡神社の方へ向かいます。三宅八幡神社参道の南側の住宅地の中に、祟導神社のお旅所になっている小さな盛り上がりがあります。入れないように柵がしてありますが、ここは「おかいらの杜」と呼ばれています。「おかいら」は「瓦屋」のなまったものだといわれており、ここでは平安時代の瓦窯跡(小野瓦窯址)が確認されています。『延喜式』に出てくる「小野瓦屋」ではないかということです。布目の模様が入った瓦片がたくさん落ちています(写真下)

おかいらの森

【アクセス】祟導神社 叡山電車三宅八幡下車 徒歩10分 
【参考文献】伊東宗裕『京の石碑ものがたり』(京都新聞社 1997)
      山中章・山田邦和共著『日本の古代遺跡28 京都II』(保育社 1992)

小野妹子の墓



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