■足利将軍木像2
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足利尊氏木像

初代足利尊氏木像

足利歴代将軍木像

 等持院霊光殿に安置されている足利歴代将軍木像は、向かって左側に尊氏・義詮・義満・義持・義教・義勝・義政、右側に徳川家康(もと石清水八幡宮宝蔵坊から移されたもの)・義尚・義稙・義澄・義晴・義輝・義昭と列んでいます。この木像についていくつかの問題があります。それを順番に紹介していきます。 ひとつ目の問題は、等持院では歴代代数の数え方が通説と違っています。
 足利将軍の歴代については、一般には
 (1)尊氏 (2)義詮 (3)義満 (4)義持 (5)義量 (6)義教 
 (7)義勝 (8)義政 (9)義尚 (10)義稙 (11)義澄 (12)義晴 
 (13)義輝 (14)義栄 (15)義昭 
という順で数えられています。ところが、等持院ではこれがどういうわけか、
 (1)尊氏 (2)義詮 (3)義満 (4)義持 (5)義量 (6)義教
 (7)義勝 (8)義政 (9)義尚 (10)?  (11)義稙 (12)義澄
 (13)義晴 (14)義輝 (15)義昭
という順で数えているというのです(等持院発行のパンフレット、出雲路敬和解説『等持院』)。つまり、5代義量と14代義栄の2像が欠けている上、第10代が空席になり、さらに通説では10代とされる義稙が11代に数えられています。
 まずは5代義量について考えてみましょう。足利氏の場合、将軍になったということと、幕府の首長であり足利家の家督である「室町殿」(つまり、”日本国王”)になったということは分けて考えねばなりません。義量の場合、父親の義持は元気で幕政の実権を握っており、義量は将軍にはなったがついに「室町殿」にはなれなかった、と考えると筋が通ります。義量は唯一、「室町殿」になれなかった足利将軍ということで、将軍像からはずされてしまったのではないでしょうか(1997年歴史フォーラムの会議室において呆庵さんからご教授いただきました)。
 等持院の歴代で10代が飛んでいるのは、9代義尚が死んだ後、一年間ほどだけですが父の義政が「室町殿」の地位をふたたび引き継いでいる(将軍には再任されなかった)、という事実と関係があるのかもしれません。
 次に15代義栄についてです。第13代義輝が松永久栄に殺害され、一時将軍位は空席になりました。それをめざして、三好三人衆に擁立された義栄と、織田信長に擁立された義昭がレースをくりひろげることになります。一足早く将軍位のゴールに達したのは義栄のほうでしたが、彼は結局京都にはいることができず、信長の上洛に相前後して病死してしまいます。つまり、義昭=信長のラインからすると、義輝の正統の後継者は義昭であり、義栄は不法な「簒奪者」だったはずです(そう主張しないと、義昭=信長が逆に「正統な将軍の命にしたがわない反逆者」になってしまいますから)。結局、最終的に勝利をおさめたのが義昭=信長だったがために、義栄は確かに将軍職についていながら、等持院の「正統」将軍像からははずされてしまったと考えられるのではないでしょうか?
 なお10代義稙は、1490年から1493年まで在任した後、11代義澄に将軍職を追われてしまいます。しかし1508年大内義興の援助を受け再び将軍職につきます。したがってこれを2回に数えると、10代義稙、11代義澄、12代義稙(再任)、13代義晴、14代義輝、15代義栄、16代義昭ということになります。足利将軍の代数の数え方にはこのようなものもあるということは知っておいても良いでしょう。

義詮・義満・義持
 2代足利義詮     3代足利義満     4代足利義持

義教・義勝・義政
 6代足利義教     7代足利義勝     8代足利義政 

義尚・義稙・義澄
 9代足利義尚    10代足利義稙     11代足利義澄

義晴・義輝・義昭
 12代足利義晴    13代足利義輝    15代足利義昭

足利将軍木像1



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