■室町幕府発祥の地
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足利尊氏邸・等持寺跡石碑と御所八幡宮

左 足利尊氏邸・等持寺跡石碑  右 御所八幡宮

  御池通といえば、道幅が広く、オフィス街で、祇園祭りの時には山鉾の巡行するという道路というイメージです。では、平安時代、室町時代は何があったのでしょうか。
 1995年、京都府保険事業共同組合によって、組合創立45周年を記念して、「足利尊氏邸・等持寺跡」の顕彰碑および解説板が建立されました。(この解説板は団長が書いています。下の解説がそうです)

足利尊氏邸・等持寺跡

周辺地図

 京都府保険事業共同組合・保事協会館のあるこの付近は、室町幕府初代将軍足利尊氏(1305〜1358)の「三条坊門第」(「二条万里小路第」)のあったところである。尊氏邸の範囲については諸説あるが、二条大路、三条坊門小路(御池通)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250メートル、東西120メートルの土地を占めていたと考えるのが最も合理的であろう。尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文3年(1358)にはここで薨じた。この地は、後に「室町幕府」と呼ばれた政権の発祥地であったわけである。
 後にこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められた。尊氏は3つの寺院を建てることを願ったが果たせず、そのため「等持寺」という文字の中には3つの寺が含まれることになったと伝えられている。等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割を果たした。しかし、応仁・文明の大乱(1467〜77)以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院(北区)に合併されてしまった。近代に残る「御所八幡宮」は、尊氏邸・等持寺の鎮守社であったという。
 なおこの地は平安京の条坊表示では左京三条四坊七町にあたり、歌人として著名な右大臣藤原定方(873〜932)の邸宅「大西殿」があったことでも知られている。後にこの邸宅は冷泉天皇皇后昌子内親王(950〜999)の御所となった。紫式部が『源氏物語』で描く藤壺中宮とその御所三条宮は、昌子内親王と大西殿をモデルにした可能性が高い。



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