■織田信忠の見た風景
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押小路殿跡(京都市中京区両替町通御池上ル金吹町)発掘調査現地説明会

 2002年3月、平安京左京三条三坊十町(押小路殿跡、京都市中京区両替町通御池上ル金吹町)の発掘調査現地説明会が行われました。財団法人京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査で、現場からは『洛中洛外図屏風』に描かれた二条家の邸宅である「二条殿」の「龍躍池」の一部と推定される庭園の跡が発見されました。上の写真はその現地説明会の時に撮った写真です。左下に池の州浜が見られます。中央の固まりは庭石です。
 「二条殿」は後に誠仁親王の「二条新造御所」となりました。ここは織田信長の長男・織田信忠が「本能寺の変」の際に明智光秀軍に囲まれて自刃した場所でもあります。信忠も眺めたであろう庭園の跡を前にすると、心と身体が一瞬、時空を飛び越えたように感じました。

旧二条城と二条新造御所

  
本能寺位置図   信長・信忠の墓(大雲院)

 信長が15代将軍足利義昭のために造営した旧二条城(二条御所、二条新第、武家御城)と、本能寺の変において織田信忠が自刃した二条新造御所(誠仁親王御所)は別のものです。ガイドブックや書籍、研究者の中でも、混同されていますのでご注意ください。
 旧二条城は、信長が15代将軍足利義昭のために、足利義輝の御所跡を拡張して造営したものです。しかし義昭追放ののちは、解体移築が進み、廃墟となりました。
 誠仁親王の二条新造御所は、庭園のすばらしさで有名であった二条家の邸宅で、信長が二条家を立ち退かせて自分の京都屋敷とし、のちに誠仁親王に献上したものです。本能寺の変の際、隣の妙覚寺を宿舎としていた信忠は、堅固な二条新造御所へ移って戦いましたが力及ばず、そこで自刃しました。
 本能寺の変後、二条新造御所の跡には、信忠の霊を弔うために大雲院という寺が建てられます。豊臣秀吉の都市改造により大雲院は寺町通へと移転します。昭和に入って東山区の円山公園に移ります。
境内墓地のひときわ大きな石塔が、信長・信忠の墓石です。

 位置関係がわかるように、簡単な周辺地図を作成してみました。「義昭の旧二条城」の範囲については、いろいろな説があります。上の図では京都大学の高橋康夫先生の最新説をとりました。

【参考文献】
川上貢「将軍義昭の武家御城と織田信長の二条新造御所」(京都市埋蔵文化財研究所編『つちの中の京都2』ユニプラン、2002年)
高橋康夫「織田信長と京の城」(日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年)

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