■幻の方広寺大仏2
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左 検出された方広寺大仏殿台座   右 史跡に指定されている方広寺石垣

 2000年8月、方広寺大仏殿の基壇と台座が発掘調査によって明らかになり話題になりました。場所は現在の豊国神社の東側にあたります。大仏鎮座していたと推定される場所は、少し地面が高まっています。巨大な大仏が安置されていた場所に立つことができ感動しまた。発掘調査を終え、現在は公園として整備されています。
 1998年の調査の現地説明会(京都国立博物館新館建設に伴う調査)にも行きましたが、南面石垣の裏込石に石仏や石塔が使われていたのが印象に残っています。

方広寺

方広寺大仏殿(豊臣秀頼再建)と大坂城天守閣(豊臣秀吉時代)の規模比較
方広寺大仏殿(豊臣秀頼再建)と大坂城天守閣(豊臣秀吉時代)の規模比較

 方広寺は天正14年(1586)、豊臣秀吉が奈良の東大寺にならって大仏建立をこころざし、造営を開始したのがはじまりです。文禄4年(1595)、ほぼ大仏殿が完成し高さ6丈(約18メートル)の木製金漆塗座像が安置されますが、翌慶長元年(1596)、機内を襲った大地震のため大仏は大破してしまいました。そして慶長3年(1598)、大仏開眼供養を待たずに秀吉は死去し、その意志を継いで秀頼が大仏復興を命じ再建が開始されます。慶長17年(1612)、ようやく銅造大仏が完成しました。
 大仏殿は、豊臣家滅亡後も破却されずに残りましたが、寛政10年(1798)、落雷によって焼失してしまいます。天保年間に旧大仏の10分の1の木造半身像が寄進されましたが、それも昭和48年に再び火災に遭って焼失してしまいました。
 京都市埋蔵文化財研究所の調査により、大仏殿の規模がほぼ明らかになってきました。
1998年度の調査では、南面石垣の様子、南門は八足門で、回廊は複廊であったことがわかりました。2000年度の調査では、大仏殿の規模や台座の形、大仏の位置、建物中軸線がわかりました。
 上の大阪城との規模の比較図は、どれだけ大仏殿が大きかったかを物語っていると思います。巨大な大仏殿の姿は、洛中洛外図などにも描かれ、「京の大仏っつぁん」として親しまれてきました。現在、方広寺大仏殿を忍べるものは、豊臣家滅亡のきっかけとなった銅鐘と、巨大な石垣のみしかありません。

※上の図面は、宮上茂隆氏原図(『週間朝日百科日本の歴史』30所収)と1998年8月8日に開催された京都市埋蔵文化財研究所による『京都国立博物館構内発掘調査現地説明会資料』より作成。

【アクセス】博物館三十三間堂前下車徒歩5分

【参考文献】
京都市埋蔵文化財研究所による「京都国立博物館構内発掘調査(1998.8.8)」「方広寺跡(1998.11.14)」「方広寺大仏殿跡(2000.8.12)」現地説明会資料

幻の方広寺大仏1




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