■豊臣秀次墓所
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豊臣秀次墓
豊臣秀次墓

 木屋町通は夜の町だ。昼間はなんの変哲もない小さな通りだが、夜ともなれば酔客のさざめきで埋めつくされる。この町の一角、三条との交差点の辻に、ひっそりと忘れ去られたような寺院がある。瑞泉寺である。
 瑞泉寺の門前には「豊臣秀次公之墓」と記された石柱が建つ。ここには世にも恐ろしく悲しい歴史が秘められている。

豊臣秀次墓所・瑞泉寺

瑞泉寺

 瑞泉寺は、豊臣秀次の菩提を弔うため、角倉了以によって建立された寺院です。瑞泉寺の名は、秀次の法名によります。
 豊臣秀吉の甥(姉の子)秀次は秀吉の養子となり関白の位を継ぎましたが、秀吉に実子秀頼が生まれてからは疎んぜられ、文禄4年(1595)高野山において自害させられました。その首は三条河原に運ばれ、その前で秀次の遺児、妻妾39人が処刑されました。彼らはともどもその場に埋葬され、そこには「悪逆塚」または「畜生塚」と呼ばれる大きな塚が築かれました。その異様な姿は、当時の「洛中洛外図」にも描かれています。
 秀次一族の塚は、その後鴨川の氾濫などにより荒廃してしまいました。高瀬川をひらいた角倉了以はその工事中に秀次の墓石を発見し、慶長16年(1611)に秀次らの菩提を弔うために一宇を建立しました。寺伝によると現在の瑞泉寺の本堂はもとの塚の位置に建立されているということです。そして境内西南に、修築した秀次の石塔がまつられています。その左右には昭和17年に大阪豊公会によって建てられた49基の小五輪塔がならんでいます。

【アクセス】市バス河原町三条、京阪電鉄三条駅、地下鉄東西線三条京阪駅下車すぐ





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