■聚楽第を歩く 1
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松林寺と聚楽第址石碑
松林寺と聚楽第址石碑

 松林寺をはじめて訪れた時のことです。寺の門をくぐると、門から本堂、さらに墓地までがかなり急な段差になっています。「何で段になっているのかわかる?」、団長がいたずらっぽく問いかけました。答えに窮していると、松林寺境内の段差は、豊臣秀吉が造った聚楽第の外濠の跡だといわれていることを説明してくれました。
 その後、友人の中村武生氏(御土居堀研究家)の案内で、聚楽第跡を歩く機会がありました。注意深く歩いてまわると、松林寺と同じような段差や、聚楽第ゆかりの史跡が残されていることを知りました。
 上写真左は、松林寺の門から撮った写真です。写真右は、聚楽第址の石碑です。

聚楽第

聚楽第復元図   聚楽第図屏風

 聚楽第は、天正14年(1586)豊臣秀吉が平安宮内裏の跡地に築かせた城郭です。後陽成天皇の行幸を迎え、諸大名に天皇と天皇の代理である関白秀吉に忠誠を誓わるという一大イベントが行われた舞台となりました。甥の秀次に関白を譲っってからは秀次の居城となりましたが、文禄4年(1595)の豊臣秀次の失脚後、秀吉の命により破却されました。9年間という短い期間でしたが、京都における豊臣政権の中心として存在ました。

 聚楽第の範囲は、いろいろな説があり、まだ確定されるにいたっていません。これまでの遺構の発掘例としては、上京区一条通大宮下ル民家の敷地では、花崗岩の切石9個からなる礎石群が発見され、櫓の存在が推定されました。また平安宮内裏承明門跡の調査では、聚楽第に関連すると思われる四脚門跡・濠跡・整地層などが検出されています。また西陣職業安定所の発掘では大規模な堀の遺構が検出され、多数の金箔瓦が出土しています。

 上の聚楽第復元図は、森島康雄氏による「聚楽第跡考定図」(森島康雄「聚楽第と城下町」『豊臣秀吉と京都〜聚楽第・御土居と伏見城』日本史研究会編 文理閣)を元に作成しました。
 画像は三井文庫蔵の「聚楽第図屏風」に描かれた聚楽第の姿です

【アクセス】松林寺 市バス千本出水下車徒歩5分

聚楽第を歩く2





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