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紀の国
ぶらくり劇場

和歌山市本町


 紀の国ぶらくり劇場の船出
平成19年3月、今となってはシャッター街と化した感のある和歌山市最大の商店街「ぶらくり丁」に、大衆演劇を上演する劇場「紀の国ぶらくり劇場」がオープンした。オープニングアクトは和歌山県有田市出身の座長「近江飛龍」率いる「近江飛龍劇団」だった。「大衆演劇」「ぶらくり丁」に、「再生」というキーワードを内包したこの劇場の船出は、「時期尚早」「和歌山で採算が取れるのか」「今さら大衆演劇なんて」「何もぶらくり丁でなくても」といった逆風と波浪に囲まれての、非常に厳しいものであった。

大衆演劇のイメージといえば「田舎芝居」「舞台演劇として低いクオリティ」「粗雑なおひねりの投入」「古臭い」etc...まず、これらのイメージを払拭し、大衆演劇の魅力を伝え根付かせることが、紀の国ぶらくり劇場に課せられた、まず一つ目の課題。そして、ぶらくり丁の再興、これが二つ目の課題。三つ目の課題は・・・そう、和歌山県民を元気にすること。これらの困難な課題に、ぶらくり劇場はオープン前から挑んでいたのだ。


- 紀の国ぶらくり劇場 DATA -

【観劇料】:1800円(小人1000円)
【オプション】:座席予約300円増、桟敷席観覧200円増(予約は電話では×、直接劇場来館にて)
【公演】:昼の部(12:00〜)と夜の部(17:30〜)の2回公演、それぞれ約3時間公演
【開場】:開演時刻のそれぞれ1時間前
【休館日】:月の最終日と、他に1〜2日
【収容能力】:椅子席72、桟敷席40、最大で約150名収容可
【電話】:073−424−8380
【アドレス】和歌山県和歌山市本町2−11
【HP】http://space.geocities.jp/burakurigekijyou/


---本文に登場する人物は敬称略にてご容赦下さい---


 大衆演劇の世界
大衆演劇を観劇したことはなくても、どこかでポスターぐらいは見た事があるかもしれない。白塗りのキッツイ化粧をした人たちがちょんまげで刀を持ってたり、男の人が女の人の格好をして踊ってたり、旅人の姿で三度傘を被りキメキメでこっちを見てたりする、あれだ。そしてあなたが梅沢富美男を知っていれば話は早い。どう見積もっても男前とは言えない中肉中背、さえない感じの中年男が「恋はぁ〜 い〜つぅでもぉ〜 は〜つぶた〜い〜」というサビの「夢芝居」って歌を歌ってたのをご存知だろうか。その男は、ひとたび女物の着物をまとい鬘を被り化粧をすれば、原型がさっぱり分からないほど別人のように、そして美しく変貌し女形で舞う。この「変化(へんげ)」の世界が、大衆演劇の魅力の一つだ。「あのオッサンがこんなベッピンに」という驚きは、大衆演劇ではごく当たり前に披露されていることなのだ。そういえば大衆演劇からメジャー芸能へ飛翔した役者といえば、梅沢のあとに松井誠がいる。たまにタニガワ企画が和歌山に呼んでいるので、こちらも名前くらいは聞いたことがある人もいるかもしれない。最近では早乙女太一という大衆演劇の少年役者が、北野武監督の映画出演をきっかけに各種メディアにクローズアップされている。「稀代のカリスマ少年役者」などと派手なタイトルを冠され女性向け雑誌に載っていたり、テレビ番組で特集を組まれてインタビューを受けていたりするので、皆さんも目にする機会が多いのではないだろうか。
 
中身が男だと知らなければマジ惚れしかねない美貌(大川竜之助)「大衆文化辞典」には、大衆演劇についてこのように記されている。「かつては、旅芝居、小芝居、寄席芝居、ドサ回りともよばれ、小規模な一座で下町の常打ち劇場や地方のヘルスセンターで公演する演劇の総称」。ついでに「田舎芝居」とも言われることがある。

さて、これを見ているあなたも、状況はどうあれインターネットを使用できる環境にあるわけだ。試しに「大衆演劇」で検索してみるといい。膨大な量のサイトが掻き集められ、まずどれを参照してよいのかわからなくなること請け合いだ。そして、見ていくうちに役者の画像にぶち当たる。普通に生活していて、テレビや映画、そして商業演劇ぐらいは見たことがある人でも、派手なメイクと衣装の、ある種「怖い世界」を感じさせる大衆演劇の役者の姿に「引く」だろう。そして、そんな異質ないでたちの役者にキャーキャー言ってる「お宅ら、大丈夫?」と声を掛けたくなるような、ちょいと理解できない大衆演劇ファン心理(多くは女性)に圧倒されるはずだ。そして現実には、あなたが大衆演劇の世界を目にしてどう感じるかは別として、この日本には娯楽の対象として確かに大衆演劇というものが存在し、衰退するどころか徐々にファンを増やしているのだ。
 

 大衆演劇の世界
大衆演劇なんぞ、衰退の一歩を辿っているのでは?っつーか、未だにそんなもんがあったのか?という懸念をよそに、なぜ、大衆演劇はここ数年、裾野が広がっているのか。理由としてはいくつもあるが、そのうち大きなものを3つに絞ってみる。

まず一つには、大衆演劇業界が現代エンターテイメントの一角として、かつての旧態依然としたイメージの払拭に努めていることが挙げられる。多くの劇団は、20歳前後の若い座長を誕生させ(10代で座長襲名も珍しくなくなってきた)、脈々と受け継がれる伝統を守りながらも新しい現代思想を取り込み進化の道を模索している。そして中高年ファンのみならず若いファン層の獲得に乗り出し、徐々に成果を出しているのだ。かつては40台の座長などザラにいたが、若年ファン層への配慮として若手の起用を積極的に行っており、座長も低年齢化している。メイクに関しても、現在の主流はナチュラルメイク。どちらかと言えば、濃い化粧・薄い化粧を状況によってうまく使い分けているというのが正答かもしれない。芝居ではリアリティや新劇系のテイスト、流行のギャグの取り入れ等、各劇団がある種、危機感を持って「見応えのある舞台」を演じている。舞踊では日舞ベースの伝統芸能系から、流行のロックやポップスにあわせてヒップホップ系の踊りを披露することもあり、古臭いイメージを抱いたまま観劇すると、かなり驚かされることがある。

次に、インターネットの普及。携帯電話・パソコンを利用し、ファン同士の情報交換や交流のみならず、大衆演劇を知らない人も興味を持ち、情報を集め、知人などを頼ったりして観劇に向かう。そしてハマる。もちろんすでにファンであっても、役者やファンのサイトでお気に入りの役者や掲示板に書き込まれる舞台の様子を見ているうちにいてもたってもいられなくなり、たとえ遠方でも観劇に向かうという、一つの強力な動機付けにもなっている。これまではファン同士の交流といえば機関紙やファンクラブ程度しか資源が無かったが、インターネット上で匿名のまま交流が可能となり、ファン同士がオフ会的に観劇しに集まる、という新しい観劇スタイルが若・中年層の一部に定着しつつある。各劇場・センターの公演予定やゲスト出演情報、イベント情報といったものが、インターネットで手軽に得られるようになったことも、観劇への動機付けを高めることに寄与している。

そしてもう一つ、テレビ・ラジオや映画にはない「双方向性」が、大衆演劇にはある。役者と観客との距離が物理的にも精神的にも近いのだ。後で述べる「お花(ご祝儀)」の受け渡し、公演終了後に行なわれる「送り出し」といわれる劇団員によるお見送り、芝居や口上の際における役者と観客のコミュニケーション。気に入った劇団の公演に何度か行くうち、役者もその客を覚え、送り出しの際などで会話や写真撮影に気軽に応じてくれるようになる。プロの役者とそんな気軽な仲になれるエンターテイメントなどそうそうあるもんではない。そのような大衆演劇独特の要素が、一方向に、かつ一方的な情報発信たる現代メディアやエンターテイメントに食傷気味な、一般大衆の心を掴んでいるのだ。
 

 大衆演劇の構成
劇場での大衆演劇公演はおおむね1ヵ月単位。初日から1ヵ月公演を行ない、千秋楽(最終日)を終えるとその劇団は次の公演地へ向かう。それと入れ違いに、翌月に公演を行なう別の劇団が来る。一部の劇場・センターでは、時期によって半月で入れ替わる場合もあるが、例外的だ。

劇場公演では、昼公演・夜公演の、一日二回公演が一般的。開演時間は各劇場でマチマチなので事前に確認が必要。また、センターと呼ばれる健康ランドや宿泊施設での公演は、昼はおおむね通常の構成だが、夜は舞踊ショーのみであるとか、公演時間が短いとか、芝居と舞踊ショーの間にランチ・ディナータイムが挟まれるとか、そもそも夜公演が無いとかで、様々な公園形態がある。従ってこちらも事前に情報を得ておく必要がある。いずれも月の最終日と、その他に1〜数日の休演日があるので注意。
 
公演の構成としては「芝居(狂言)」「舞踊・歌謡ショー(グランドショー)」の二部構成、もしくはオープニングに「ミニショー(パッケージショー・顔見世ショー)」を加える三部構成。トータルで約3時間、幕間に口上(口上挨拶)や1〜2回の休憩が入る。
■「ミニショー」は舞踊・歌謡や小芝居など、20〜30分程度で顔見世がわりに行なわれる。このミニショーは劇団によって、または当日のプログラムによって、やったりやらなかったりする。座長クラスが出演しないこともある。
■「芝居」は約1時間で、主に江戸時代あたりを舞台にした時代劇が多い。国定忠治の「名月赤城山」や「赤穂浪士シリーズ」、「瞼の母」、「マリア観音」といった有名な狂言から、大衆演劇ではよく採用されている「身代わり孝行」「二人忠治」「めくら縄」、明治・大正・昭和初期の動乱を舞台にしたもの、そしてサラリーマンの悲哀を描く現代劇まで非常に幅広く扱われる。歴史ある狂言でも、各劇団のカラーを反映させ独自の演出を行なったりして色々と工夫しており、以前に他の劇団で観た外題であっても、劇団が変われば内容や味付けが変わっていたりして、独自のものを楽しめる。また、名作にアドリブを入れまくって珍作にしてしまうのが得意な劇団もあり、良い意味で期待を裏切られることもある。
歌を歌いながら、観客と握手をして回る役者も(森川長二郎)
■「舞踊・歌謡ショー」では、役者が色とりどりの衣装をまとって踊ったり、自慢の歌謡を披露する(ただし歌がヘタクソな人もいるので、ファンサービスぐらいに考えてたほうがいい場合も)。舞踊ショーでは特に、男性役者が女性の衣装で踊る「女形」に人気が集まる。先ほどの梅沢富美男が昭和の歌謡番組「ベストテン」とかでやってたようなやつだ。確かに、知らなければよ〜く見ないと男であることが分からないほどデフォルメされた姿かたちなので、初めてその役者の女形を観る時には結構驚かされる。この女形を主力役者が一通り、または総出で行うショーを「女形大会」と呼び、公演中の目玉ショーとなることもしばしば。さらに若い役者は流行のロックやヒップホップに乗って派手に踊ることもあり、かつての大衆演劇とはかけ離れたイメージを実感できる。他に、目が追いつかないほどスピーディに扇子を回したり飛ばしたりするパフォーマンスを組み込んだり、日本舞踊をルーツとする伝統的な舞踊をアレンジして現代的に踊ったり、三味線の生演奏を組み込んだりと、様々な舞踊スタイルがある。
■公演のラストは「ラストショー」で締めくくる。こちらも主に「お梶・藤十郎」「梅川・忠兵衛」「播随院長兵衛」「決戦!高田の馬場」など名作を題材にした5〜10分ほどの狂言や集団舞踊、ミュージカル的なもの。有名マンガや映画のワンシーンをリメイクしたもの、沖縄や中国・韓国などアジア圏の音楽や衣装、伝統舞踊をアレンジしたもの、果ては「オカマショー」なんてのをやる日のある劇団などもある。おおむね座員総出で豪華なショーとなるので、短時間だがかなり見応えがある。また、ラストに太鼓ショーを行なう劇団も。有名和太鼓チーム顔負けの豪快な太鼓ショーは、ラストショーでもかなり人気があり、集客に繋がる。
 

 大衆演劇独特のシステム
大衆演劇独特のシステムとして重要なポイントの一つとして「演目が毎日変わる」ことが挙げられる。毎日違う芝居・舞踊・ショーが一ヶ月間、続くのだ。このあたり、公演中は同じ芝居をずっと行なう商業演劇と全く異なる点だ。舞踊・歌謡は人気があるものが別な日にも演じられることがあるが(贔屓客のリクエストで仕方なく踊る場合もあるそうだ)、「芝居」と「ラストショー」は特に理由の無い限り、1ヵ月の公演の間でカブることはない。従って、毎日観ても違うことをやっているのだ。このあたりが大衆演劇の劇団のスゴいところ。人気劇団ともなれば、芝居のストックを100ぐらいは普通に持ってるそうで、毎日足を運ぶ芝居好きや常連がいるのもうなずける話だ。従って、一度観ただけで芝居が面白くなかったとしても、別な日に観れば自分にとって面白く感じられる芝居をやってる可能性もあるわけだ。

次に、大衆演劇ビギナーが驚くのが「お花」。これは、お気に入りの役者が踊っている最中に舞台に近寄り、ご祝儀として現金を渡すという特殊なシステムだ。昔は小銭を紙で包み、舞台に放り投げる慣習(おひねり、投げ銭)があったが、高額な通貨が貨幣から紙幣へとシフトしてきたことと、舞台に物を投げるという雑な行為ということで、近年では見られなくなった。その代わり、現金を封筒に入れて役者の襟元や帯に差したり、髪留めで裸のお札を衣装に挟んで渡したりするのだ。役者側も心得たもので、お花を渡そうと舞台に近付く客を発見すると、タイミングをみて近寄り、腰を落として受け取る。また、金銭だけでなく、物品の差し入れが行われることもある。飲料や食品、花束、番傘や扇子、そして高額なものとして舞台衣装といったものも提供される。ただし、このような行為はあくまでオッカケや贔屓と言われるファンの行為であって、普通に観に行くだけならそんな事しなくていいのだ。っていうか普通(大多数の人)はしない。すでに入場料払ってるんだから。もっと役者に近付きたい、金銭的に少しでも応援したい、という熱いファンがこれをやるのだ。お花は公演終了後の、次に述べる送り出しの際に渡すこともある。

森川長二郎にダッコしてもらったウチのチビさん。人見知りするチビさんだが、「ちょーじろーさん!」と大喜び。そして最後に挙げるのが「送り出し」。これは商業演劇でも一部あるが、公演終了後に座員が総出で客を見送る慣習のことだ。その際、握手や写真撮影、また会話したりサインをもらったり、仲良くなれば同伴したチビさんを役者にダッコしてもらったりもできる。この送り出しをあまり真剣にやらない劇団もあるが、おおむね人気劇団では(後で用事のある贔屓客は別として)最後の客が帰るまで続けられる。さっきまで舞台に出ていたプロの役者と間近で接せられる珍しい機会であるので、舞台で惚れて送り出しで握手をしてもらって「オッカケ確定」となる女性客がいたり、芝居でとんでもない悪役だった役者が「ど〜も〜、ありがとうございましたぁ♪」などとお茶目に言うとコロリと惚れてしまう女性客もいる。このように劇団にも客にもメリットの大きな、大衆演劇では欠かすことの出来ない要素なのだ。送り出しの丁寧さや愛想によって、特に一見客の受ける印象が決定的に変わってくる。いくら芝居で感動しても、送り出しをやらなかったり、応対が雑だとリピーターが増えない。もしあなたが大衆演劇をたまには観てみようと思うなら、一度観劇し送り出しの印象で、今後を決めてみるのもいい。それも観客による劇団に対する評価であるのだから。
 

 和歌山の大衆演劇
かつて和歌山市内には最盛期で6ヶ所の大衆演劇場(芝居小屋)が存在した。戦後の復興期〜高度成長の黎明期が大衆演劇のピーク。当時のヒーローといえば、現代とは異なりメディアが未発達であったため、伝説伝聞もしくはリアルに目にしなければならないものが主であり、大衆演劇の役者などはその代表格と言えた。現在のように、メディアに頼る間接的な情報は希薄であり、「実際目で見たもの」が大変な価値を持っていたのだ。現実にヒーローが眼前で活躍した芝居小屋が、本町や美園町、杉ノ馬場、中之島などに存在し大衆のハートを掴んでいたのだが、それも高度成長の成熟とともにテレビ・ラジオ等各種メディアの発達に押され、次々と閉館されていく。本格芝居小屋は、昭和53年あたりを境に、和歌山県から完全に消滅した。

再び大衆演劇が陽の目を見たのは、昭和の後期あたり。健康ランドブームの到来に呼応する。和歌山市に健康ランド「湯〜とぴあ」がオープンし、毎月大衆演劇が上演されそれなりに客は入っていた。しかしながら当該センターの経営状況が悪化。大衆演劇そのものはまずまずの集客力を発揮していたが、ヘルス産業の多様化や本格温泉ブームの到来とともに、健康ランドは苦戦を強いられ次々に閉館していく。「湯〜とぴあ」も同様、21世紀の到来ののちに閉館。これにより和歌山での大衆演劇の灯が、またもや消えた。

5年ほどの空白期間を経て、和歌山に大衆演劇の灯が点されたのは2005年。和歌山市ではなく、岩出市の旅館が大衆演劇の上演を始めた。しかし長続きせず、1年ほどで閉館の流れに。これを旅館の関係者が引き継ぎ、「ねごろ座」として再オープン、何とか灯を消さずに持ちこたえたのだ。

それからまた1年を経過した平成19年(2007年)。ようやく和歌山市に本格大衆演劇場がオープンした。これを立ち上げたのは、大衆演劇関係者でもない、マスコミ関係者でもない、資産家でもない。とある介護事業所で管理責任者をしていた、一介の介護サラリーマン・・・村野であった。
 

 和歌山には大衆演劇のエネルギーが必要だと考えた男の話
村野は大衆演劇のファンであった。そのルーツは実家のある岸和田、いつも自身の傍にいてくれた、彼の祖母にあった。祖母は大衆演劇が大好きで、幼い村野少年を連れて鑑賞に勤しんでいた。彼にとって大衆演劇は、幼さゆえに理解できない要素もあった。だが、芝居に笑い、涙する祖母をはじめとするあまたの観客を見、自身の成長の糧となる重要なものであった。大衆演劇を通じ、村野少年には祖母と大衆演劇から「人情」の二文字を深く胸に刻み込まれていた。

福祉系の大学を出たものの、一般企業に就職したが、うまくいかなかった。知人の紹介もあり、和歌山の福祉業界に職を得た。そして年数がたち、部下が増え、人脈もでき、現場を任され、自身の仕事にもそれなりにやりたいことがやれるようになってきた。そんな中、何度か介護事業利用者のお年寄りを大衆演劇にお連れすることができた。当時和歌山には辛うじて「湯〜とぴあ」が健在しており、若かりし日に大衆演劇に親しんだお年寄りに、その空気を楽しんでもらうことができた。自身も大衆演劇を楽しんだことは勿論だが、大衆演劇を食い入るように見、手を叩き、喜び、そして涙する・・・童心に戻ったかのように眩しい表情を見せるお年寄りを見て、村野は二重の喜びを得ていた。しかし上記のように、唯一の灯であった「湯〜とぴあ」は21世紀の訪れとともに、ある意味象徴的に・・・閉館する。ここにおいて、彼にとって重要なエネルギー源がひとつ、枯渇してしまった。

しかし村野は大衆演劇の糸をたぐることをやめなかった。多忙な介護業務を縫うように、休日には遠方へ大衆演劇を観に出かけた。家族や知人を連れて行くことも多かった。お気に入りの劇団もいくつかピックアップされた。こうしてさらに村野が大衆演劇にのめりこむ中で、村野の人生を大きく左右する、ある大衆演劇役者との出会いがあった。以前から村野はその男の舞台に魅せられており、介護サービス利用者にその舞台を楽しんでもらおうと、本格的に接触を行う(決して変な意味ではない・・・と思う)。その男は村野の意気に感じ、大衆演劇の灯の消えた和歌山で、「超」がいくつもつくような多忙なスケジュールの合間を割き、村野の関わる介護事業所に慰問公演を行ってくれた。それが、今をときめくA級劇団座長の「近江飛龍」その人であった。

ぶらくり劇場こけら落とし前夜祭(近江飛龍)
そしてある時、村野は近江飛龍に言った。「和歌山に大衆演劇場を作りたい」。しかし、大衆演劇の道に、すでに30年近く関わる近江飛龍は、村野のために・・・これを諌めた。大衆演劇を一から根付かせることの難しさを、飛龍は知っていた。そしてこれまでに、必死にもがきつつも止むなく無念のうちに閉館していった劇場やセンターの苦悩も知っている。同じ苦しみ、同じ失敗はもう、この純粋な男に味わわせたくなかった。しかし、その男の大衆演劇場立ち上げへの炎は勢いを失うどころか逆に、激しく燃えさかっていった。要するに村野は他人の言う事を聞かな(ry

高齢化の進む和歌山。しかし、高齢者向けの娯楽は世相に流され、高齢者の増加とは反比例するように衰退していった。和歌山の元気は、一体誰が作るのか?若い奴らは勝手に楽しみを見つけ、楽しめる場所を探し出し、あるいは作り出し、文化的に自活してゆく。しかし高齢者はどうだ?介護保険が導入され「自立支援」の文字がクローズアップされたが、実際はどうなのだ?介護予防だのリハビリだの地域密着だの、理念はもっともだが、現実はどうだ?そして、それに対して自分には何ができるのか?自問自答の毎日。繰り返される世間での議論をよそに、村野の心は決まった。「和歌山のお年寄りに、大衆演劇を見せてあげたい。そして、若い頃の輝きを取り戻してもらいたい。高齢者のハートが元気にならなければ、和歌山が元気にならない。ならば、俺がその火付け役となり、ぶらくり丁、いや和歌山に賑わいを取り戻してやる。」「ついでに俺も、大好きな大衆演劇を毎日タダで観(ry」

あれほど村野の大衆演劇場設立に否定的だった近江飛龍は、村野の気迫を「本物」と認識した。その時、近江飛龍は彼を友として、そして真の漢にするため、全力で支援することを胸に誓った。村野は劇場設立に奔走し、協力者を取り付け、周囲へ支援を要請した。ついでにニセ和歌山人のたかさんにも「手伝えオラ」とオファーした。その時の村野からのオファーを、たかさんはこう述懐する。「簡単に断れるような雰囲気ではありませんでした。『ちょっと手伝ってくれへんかなあ?』と聞かれたけど、協力してくれるかどうか聞いてる感じじゃなかったですもん。断れるような雰囲気じゃなかったんですよ」。こうして何とか、たかさんという強力な援軍(うそ)を加えた村野はもう鬼に金棒(うそ)、前途洋々の船出と相成った(微妙)。そして当初の夢物語が、徐々に現実となってゆく過程を、村野はヘトヘトになりながらも走り続けた。

介護の仕事を続けていれば、事業所の上役として安定した収入が得られる。しかし大衆演劇場を経営するとなると、安定収入は望めないかもしれない。ましてや、これが上手くいかなければ、家族の生活が守れない。しかし、村野の家族は当初は反対していたものの、村野の意気に感じ、了承した。妻は言った。「だってウチのパパ、一度言い出したら絶対聞かな(ry」そしてその家族も、時間を作って劇場の手伝いに来ている。妻はこうも言った。「ほんまにウチのパパは人使いが荒(ry」
 

 紀の国ぶらくり劇場の設備
村野は大衆演劇場は箱の大きさが大事だと考えた。大阪などにある、200人以上動員可能な大劇場では、和歌山の人口や認知度を考えた場合、大きすぎる。せっかく100人入ったとしても、席の半分しか埋まらないようでは困るのだ(だって100人といえば、和歌山県の人口の、何と1/10000にもなるんだから)。逆に小さすぎても、費用対効果も小さくなり経営上不利になる。一番後ろの席であっても舞台に近く、なおかつ100名以上は動員可能な劇場、これが理想であった。

劇場とする場所探しはそれほど難しいものではなかった。丁度、和歌山市のかつての繁華街・ぶらくり丁に、すでに閉鎖されている、おあつらえ向きの映画館があったのだ。映画観覧スペースは2箇所。一つを劇場とし、もう一つを楽屋にできる。広さも丁度良い。椅子がすでに設置されているため、これを観客席として流用できる。村野は、劇場を作るなら桟敷席が絶対に必要だと考えていたので、一部の座席を撤去し、舞台の高さに合わせ、桟敷席と花道を設置した。

そして、忘れてはいけないのが高齢者への配慮だ。歩ける高齢者なら座席でいける。しかし車椅子の人をどうするか。これは運よく、客席後方のスペースや桟敷席後方が使用できる。そしてもう一つ問題があった。この旧映画館は、地下二階にあるのだが、造りが古いためエレベータ・エスカレータの類はない。それらを設置しようとすれば数百万円の資金と、設置するスペースの確保が必要だ。一介の脱サラ社長に、そんなに余裕があるわけがない。そのため旧知の介護用具業者に相談、安価に設置できる階段昇降リフトを設置することとした。安全基準上、片道で2分以上かかってしまうが、現状ではこれが精一杯の選択だった。

オープン間際まで急ピッチで改装工事が行なわれ、ようやく形になったのがオープン前日の平成19年3月1日。村野を先頭に、和歌山入りした近江飛龍劇団メンバー、そして応援に駆けつけたぶらくり丁商店会のメンバーとともに、ぶらくり丁を回って宣伝を行なった。そして夕刻より関係者を招待して行なわれた前夜祭では近江飛龍劇団が舞踊ショーと太鼓ショーを披露し、劇場の門出に華を添えた。

余談だが、その夜に近江飛龍劇団の誘いで劇場スタッフ、ボランティアを近所の焼肉屋に連れて行って頂いた。最初は和気藹々と食事が進んだが、中盤に差し掛かった頃、若手の(見た目からしてもガンガン食べそうな)春○介・純○・○輔・小○丸の座るテーブルで、彼らがホルモンを大量に網に載せ、滴る脂から炎が舞い上がり、テーブルを燃やすというハプニングがあったことはここで書いちゃっていいのだろうか。この場をお借りして、飛龍さんごちそうさまでした。

そして翌日、平成19年3月2日。ついにその日が来た。
 

 こけら落とし
女性以上に女性らしい立ち居振る舞いでファンを魅了(近江飛龍)近江飛龍劇団の初日公演は、全国区の劇団だけに全国各地からファンが訪れ、大盛況のうちに幕を閉じた。「これならいけるかもしれない」。しかし、淡い期待を打ち砕いたのは、6年という和歌山の大衆演劇空白期間が作り出した「大衆演劇離れ」だった。さすがに土日は大入りを得たが、大阪や奈良といった大衆演劇文化の根ざす県外からのファンが「近江飛龍を観に」来たからだ。平日に期待した地元和歌山からの客足は、それほど伸びなかったのだ。

他の有名劇場などでは大入りが出ない日が珍しいぐらいの人気劇団・近江飛龍劇団だが、中盤にやや苦戦。しかし徐々にこれを挽回し、最終的には上々の結果を出してきた。少ない客数でも手を抜くことなく、毎日を全力で公演した。この努力を和歌山県民は評価したのだ。当然、人気劇団だけに芝居も舞踊も、スキがない。泣かせるツボ、笑わせるツボを知り尽くした劇団の層の厚さを見せ付けて、初めて大衆演劇を観る観客を虜にしていった。

また、先に述べたとおり、劇場には足腰の弱い客のため、階段昇降リフトを設置したことで高齢者の観劇がしやすかったことも観客動員増加の一因となった。介護施設やデイサービスセンター等からの団体客も訪れた。ある介護保険施設の入所者は言った。「こんな体になってしもうて、もう二度とこんなええ芝居が観られるとは思わなんだ。ありがたい、ありがたい・・・」利用者は目に涙を浮かべていた。

階段昇降リフト 往復で役5分を要するという介護施設に入所している利用者は、本格的な大衆演劇を楽しむことなど、殆ど不可能だった。しかし、それができるようになった。芝居や踊りを観ることで沸いてくる感情の起伏、拍手喝采、団員との握手、それら全てが高齢者の持つ能力を最大限に引き出した。そして、もう二度と行けないと思っていたぶらくり丁へ来ることができた。

介護保険が導入され、現在では地域密着サービスという新しい枠組みが誕生し、高齢者の生活圏で支える取り組みが進められている。しかし地域とは、その人が住む・住んでいた場所だけにとどまらない。ずっと和歌山で暮らし続けてきた高齢者にとっては、休日に家族や友人と歩いた、あるいは例え遠くてたまにしか行けなかったとしても、人生の一ページに深く刻み込まれたぶらくり丁は、その人にとっての「地域」の一つでありうるのだ。高齢者がぶらくり丁という地域に出てゆき、持てる能力を発揮した数時間。ぶらくり劇場が、高齢者の社会資源としての真価を発揮したことで村野の念願がひとつ、果たされた。
 

 オープン後の苦戦
迫力ある台詞回しに、歌謡ショーではプロ歌手。メジャーシングルをすでに2枚リリースしている本物(大川竜之助)3月はオープンの余韻とともに上々の動員だったものの、余韻の消えつつある4月の劇団竜之助は、近江飛龍劇団よりも苦戦を強いられた。こちらも全国区の人気劇団だが、前半には夜公演の観客数が一桁ということもあった。さらに不運なことに、地下という特殊な環境で、公演のみならず楽屋での毎日の生活を送らなければならない彼らに、インフルエンザウイルスが猛威を振るった(最初にインフルエンザを持ってきた団員は、すぐに復活してピンピンしていたが)。団員の半数が体調不良、発熱や嘔吐の症状をみるといった苛烈な状況の下、何とか1日間だけは公演を中止したが、あとの全てのスケジュールを気迫で行なった。公演に出られない団員の代わりに、いつもはやらない役を演じたり、また一人二役の重責をこなしたりと、団員が一丸となって舞台をこなした。そんな劇団員の奮闘ぶりを見て、和歌山の客が見放すはずがなかった。徐々に前売券が売れ始め、最終的には前半の苦戦をカバーできた。

座長・大川竜之助は初日を前に、村野にこう言っていた。「大阪などから僕の劇団のファンを動員すれば、お客さんはもっと入れられます。しかし僕はそれを絶対やりません。なぜなら、それでは和歌山に大衆演劇を根付かせることにならないからです。和歌山のお客さんが大衆演劇を観に来てくださらないと、劇場のため、大衆演劇全体のためにならないからです。」近江飛龍に続き、大川竜之助もまた、和歌山のため、村野のために苦戦を承知でバックアップしていたのだ。
 

 森川劇団の大逆転
かわいらしい女形とは裏腹に、灰汁の強い老人役も見事にこなす。アドリブ大好き(森川長二郎)5月の森川劇団は、大正時代創立という老舗劇団。公演約1ヶ月前の平成19年3月29日、大衆演劇の名門・神戸新開地劇場にて長年座長を勤めてきた二代目・森川長二郎が自らその任を解き、森川凛太郎と改名し、新座長として21歳の息子、森川松之助を指名。松之助が新座長として三代目・森川長二郎を継ぐこととなった。しかしこの森川劇団は、前の近江飛龍・大川竜之助よりもさらに厳しい戦いが予想された。

4月までは前座長・凛太郎も出演し、新座長を守り立てていたが、5月のぶらくり劇場公演からは徐々に身を引き、中日を待たずして大夫元(劇団オーナー)として表舞台からほぼ完全に姿を消した。森川劇団として初の公演地であり、大衆演劇文化の未発達な和歌山。座長を譲ったのだから一線を退くのは当然としても、ここに襲名ホヤホヤの新米座長率いる劇団を、千尋の谷に突き落とすがごとく、大看板抜きの過酷な状況に追いやった凛太郎。その心中、如何ばかりだっただろうか。(案外、呑気に隠居生活を楽しんでいたとか・・・息子・長二郎談)

長年劇団を率いてきた大看板・凛太郎が不在となった森川劇団には、近江飛龍や大川竜之助のように、和歌山がどうだとか村野がどうだとか、そんな余裕などあろうはずがなかった(その割には夜によく呑みに行ってい(ry)。二代目・森川長二郎として三十数年、劇団の核としてファンを魅了し続けてきた父はもう、舞台にはいない。序盤は幸運にもゴールデンウィークに差し掛かったため、大入りも出た。しかしGWが明けると、昼公演に席数の半分も埋まらず、夜公演は閑古鳥が鳴き、ネガティブな予想が的中してしまうこととなった。座長襲名を期に、客足が落ちたとなれば、それは劇団として存続にも関わる。統括する新米座長である三代目・森川長二郎の手腕にも疑問符が点ることになる。この森川劇団に、さらに苦難は続いた。公演初日から1週間程経過したある日、18歳の若手役者・森川梅之助が足首を骨折。かわいい顔立ちで、芝居では娘役が多かったため、急遽裏方の女性スタッフが慣れない舞台へ出ることとなった。これほどの苦難を受けて、座員の心が折れてしまうのも時間の問題か、とまで言われた。

しかし彼らは諦めていなかった。客が少なくとも、明るく楽しく前向きに、そしてひたすらに日々の公演をこなした。客が少なかろうが寝ている客がいようが、彼らは手を抜くことなどありえず、次の舞台に急ぐなかでも廊下ですれ違った客にもきちんと挨拶をし、時には出番ギリギリまでコミュニケーションを取り、握手をした。劇場スタッフから「まるでこの少ない観客という悪条件を楽しんでいるかのよう」とまで言わしめるほどの逞しさを、彼らは持っていた。彼らは何とか和歌山の観客に認知してもらうため、和歌山の観客がどんな舞台を期待しているのか、必死に探った。劇場の事はさて置いて森川劇団を心配してくれていた、和歌山では父親のような存在となった村野に、まだ21歳の新米座長は、ついつい弱音を吐くこともあった。しかし村野からの激励やバックアップ(夜中にカラオケスナックで歌いまく(ry)を得、そして幾度も幾度も議論を重ね、劇団として何が出来るかを模索した。

公演もそろそろ中盤に差し掛かり、なかなか客足を伸ばすことができず焦りの色が濃くなった頃、劇団と劇場とで共同企画した、あるイベントが行なわれた。それは5月13日の母の日に、長二郎がバラの花を一本ずつ、女性客に一人ひとり手渡して感謝の意を表わすものだった。プレゼントに弱い和歌山のおば・・・いや、女性の性質を突いた企画でもあったが、結果は予想とやや違うものだった。確かに大入りが出、企画自体は成功だったのだが、単にプレゼントを期待して集まった女性客なら、その日限りの観劇で終わってしまう。ところが、その日の前売券(その月のみ有効)の売れ方が極端に多く、劇団はおろか劇場サイドを仰天させた。前売券の購入は即ち、森川劇団そのものの舞台を「もう一度観たい」という意思表示であったのだ。

芝居でも真人間役の竜二と、クセのある変人(?)役の長二郎の掛け合いは大爆笑を誘う(森川長二郎(左・女形)と森川竜二(右))
ここから森川劇団の、予想を遥かに越える快進撃が始まった。芝居では「吉本よりおもろい」と唸らせるほど観るもの観るものを爆笑の渦に叩き込み、そして時には人情の機微を緻密に演じ、おば・・・いや女性客のファンデーションが無残に崩れ落ちるほど大泣きに泣かせた。抱きしめたくなるほど可憐で愛おしい女形舞踊の最中に、いきなりガニ股で見得を切ったり、お花(ご祝儀)にガッツポーズを繰り出すなど、観客の意表を突くリアクションで何度も大爆笑させた。ラストショーでも名作を渾身の立ち回りで演じ切り、単なるお笑い系ではない、高いレベルの舞台で観客を魅了した。こうして足を運んだ前売客が公演に大満足し、さらにまた前売券を購入ていった。イベントデー以外でも、劇団が用意していた前売券が売り切れてしまい、大慌てで再度発券することが幾度もあった。前売券が幕間で売り切れてしまわないよう、劇団サイドもかなり多めに準備はしていたが、それでも不足が出ることがあった。

中盤から勢いの止まらない森川劇団は、後半の極端な巻き返しが前半の劣勢を完全にひっくり返し、終わってみれば動員数で先月の劇団竜之助を抜き去り、大成功のうちに幕を閉じた。終盤には3月の近江飛龍さえ成し得なかった「トリプル大入り」を達成し、近江飛龍の持つ昼・夜合算の観客動員記録を更新した。千秋楽(最終日)では補助席を全て使い切ったものの、それでも観客が場内に収まりきらず、立ち見があふれ、劇場はやむなく公演中に初めてドアを開放し「場外立ち見」が発生した。当然、一公演あたりの動員数記録をまたも更新。特筆すべきは、観客の多くが和歌山の観客で占められていたことだ。通常、初日と千秋楽は遠方・他府県から贔屓筋やオッカケが好んで訪れ大盛り上がりするものだが、森川劇団はここ、和歌山の観客のハートをがっちり射止めていたのだ。そして、和歌山の観客は森川劇団との別れを、愛すべき友人との別れのように心底惜しみ、客席が一丸となって拍手と大声援で見送った。大衆演劇というものは、役者と観客がこれほどまでに一体となれるものなのか・・・。そしてラストショーでは堪え続けた感情の糸が切れ、多くの観客が涙した。千秋楽で泣いたことなど一度もなかった森川長二郎も、初めて熱いものがこみ上げてきた。

彼らは舞台裏でも変わらず、ファンのみならず劇場スタッフにも明るく楽しく接していた。出番待ちの際や開演前にはロビーで客やスタッフを相手にコミュニケーションを取った。時には和歌山弁をスタッフに教わり、その日の舞台で無理矢理使用し爆笑(時に、失笑)を勝ち取ったこともあった。売店にいたずらを仕掛けて売店担当のおば・・・いや女性スタッフに叱られる事もあった。小腹が空けばわざわざ売店でおでんやおにぎりを買い「うまいうまい、でも熱い」などと言いながらおいしそうに頬張った。そんな日々一生懸命で真摯、そしてお茶目な若い団員たちに対し劇場スタッフ達も、「何とかお客を入れてやりたい、何とか力になってやりたい・・・みんなに森川劇団の舞台を観てもらいたい」という気持ちになり、業務に多少の感情が入る余地が生まれたのも当然と言えた。こうして森川劇団は観客のみならず、劇場サイドのバックアップを存分に得ながら、日々観客動員数を増加させていった。観客動員が増えても、彼らは全く奢ることなく、丁寧にファンと接し、一人ひとりとの出会いを本当に大切にしていた。

客足が伸びない。夜は閑古鳥。俺達ではダメなのか、先代がいないとダメなのか、和歌山公演は寂しい結果に終わるのか、と毎日のように悩んでいた森川長二郎や座員たち。彼らは自らの努力で「大衆演劇の空白地帯」和歌山の巨大な壁を完璧に打ち破った。長二郎は口上の際や村野に対し、何度も「和歌山は第二の故郷になりました」と力強く言っていた。長二郎は先代の力に頼らず、自分たちの力で和歌山人の評価を勝ち取ったこの結果に、安堵感・達成感とともに新座長としての自覚を増したに違いない。現在でも、長二郎は村野を慕い、公演先からちょくちょく電話を掛けてきている。そのなかで、村野から漏れ聞いたところによれば、長二郎は寂しげな口調でこのように言ったという。「私はいつ、和歌山に帰れるのでしょうか」。
 

 その後(H19.9月まで)
独特の妖しい魅力、個性的な演出に人気が集まる、美川麗士。6月公演は「劇団美川」。座長・美川麗士はその名が示すとおり「麗人」と評されている。独特の、妖しく美しい男くささを持ち、それが劇団全体のカラーともなっている。芝居ではシリアス物、人情物といった正統派の芝居を得意とするが、定番物ばかりにとどまらず、「阿修羅城」などの新劇系にもチャレンジし、その完成度の高さで芝居通を何度も唸らせている。しかし当然ながら笑いのテイストも要所に散りばめられており、堅苦しい芝居の苦手な和歌山人をグイグイ引き込んで人気を博した。奇抜な展開やショー構成といったところもこの劇団の特長で、基本に忠実にありながらも旧態依然とした大衆演劇臭さを一掃した新たな思想のもとに、日々進化を厭わない姿勢が随所に垣間見られる舞台を披露する。ちなみに4月の大川竜之助は、この美川麗士のいとこだ。

「女形は嫌い」と言う割に女形の評価が高く、若年層ファンの多い、紅大介。7月公演は「新生紅」。座長は若干19歳ながらベテラン顔負けの完成された舞台で魅せる紅大介。この大介の父は、4月にぶらくり劇場に乗った大川竜之助の兄・紅あきら(現在はなぜか「係長」)。舞台は基本的には正統派であるが、ベテラン・若手共々、人気劇団らしく笑いやアドリブの展開を忘れない。リアリズム重視型で、セリフの抑揚や場面展開の構成などで田舎芝居とは次元の違う、商業演劇に迫る高いクオリティの本格芝居に人気が集まる。そして紅あきら直伝の完成度の高い舞踊でも大衆演劇ファンを唸らせる。男優陣の女形も素晴らしく、女形大会ではその美しさに観客のどよめきが起こる。また、女優陣も美人揃いで、大衆演劇好きな奥さんに無理やり連れられて来られたような素人男性客も、目の保養が可能。

股旅姿の粋な旅人が似合うが、アドリブや口上で爆笑も取れる、伍代孝雄。8月公演は、かつて「湯〜とぴあ」でも大入りを連発した大物、「伍代孝雄劇団」。座長・伍代孝雄は長身で股旅姿がよく似合うが、女形も当然、人気が高い。親しみやすいキャラクターで記憶力が良く、客の顔を良く覚えていて、アドリブや口上でその辺りの情報を活用し、軽やかな口調で観客を爆笑させるのが得意。例を挙げれば「あれ?あなた昨日も来てたよね?芝居なんか見てないで仕事しなさいよ」で爆笑、こんな感じ。この座長が高い知名度を持つのだが、座長のワンマン劇団などでは決してなく、役者(男優陣)の層の厚さは大変なもの。特に伍代一也・拓未・瑞穂の三羽烏の実力はそんじょそこいらの座長格に全く引けを取らないほどのもので、立ち役・女形ともに観客を魅了する。芝居・舞踊ともベテラン勢が脇をガッチリ引き締めるため、展開のコロコロ変わる場面でも全く破綻しない。とにかく何でもできる劇団だ。

舞踊の美しさは業界トップクラス、真摯で誠実な人柄で親しまれる、市川おもちゃ。そして9月、オールドファンにはすでに神格化された感のある故・初代の名を継いだ市川おもちゃ率いる「市川おもちゃ劇団」。変な名前と言う勿れ、初代の頃にはハイカラな名前であったのだ。おもちゃの名を継ぐ座長は、先代の姪の子。前座長(初代おもちゃの姪)市川恵子が病に倒れ一時は劇団存続が危ぶまれたが、現座長が二代目を継ぐことでその火をともし続けた。「芸」の一文字を如実に感じさせる玄人好みの舞台だが、コミカルな演出にも長けており、初めて大衆演劇を観る者にも新鮮な驚きと伝統芸能の粋を味わわせてくれる。おもちゃの卓越した美しい舞踊に人気が集まるが、男優陣は若く躍動感がある上、市川おもちゃ・恵子による厳しい稽古に耐え基本をしっかりマスターしており、安心感がある。また、全体的に母性本能をくすぐる魅力がある(らしい・・・若いし)。芝居・舞踊ともベテラン女優の存在感が圧巻で、達人の芸に酔える。そのため男優陣の少ない劇団にもかかわらず公演全体が引き締まる。ちなみに、市川おもちゃ劇団の実力に加え、紀の国ぶらくり劇場の努力が実ってか、9月公演は何と初日から大入りが途切れず連続している。関西のファンが和歌山まで連日のように遠征してきているという要素もあるが、やはり徐々に大衆演劇が和歌山人に浸透してきているのかもしれない。

どちらかと言えばシリアス劇なのに、この二人(右・おもちゃ、左・長二郎)のアドリブがヒートアップ、なぜか喜劇に。場内は爆笑の渦。滅多に見られない競演に、観客席は興奮の坩堝。
★【追記】さる平成19年9月10日、おもちゃ公演ゲストとして、5月公演でミラクル大入りを連発し和歌山大衆演劇ファンにその名を深く刻み込んだ森川劇団座長、三代目・森川長二郎が客演。ゲスト出演が公表されてからというもの、瞬く間に予約が殺到し公演前日を待たずして全席が予約で埋まってしまった。公演はおもちゃ・長二郎とも、ギャグ・アドリブ炸裂で大爆笑の連続。芝居ではまじめな役のはずの長二郎、当初は台本通りシリアスに演じていたが、何とか長二郎の役柄を崩したい一心のおもちゃの牽制に見事に引っかかり、ついに脱線させられ弾けてしまった。おもちゃの露骨なネタ振りに、「何を言っておるのだ」「ふざけるな」と交わし続けていたのも束の間、予想通り抵抗も長くは続かず「なっ・・・こら!そんなの無かったでしょ!」「ちょ・・・よ、余計なことを・・・台詞が飛んだわ!なんだったっけ」などと徐々に瓦解。そして「バカヤロー!芝居になんないでしょーよ!」「誰か助けてー!もぅイヤー!」、もう戻れない長二郎はようやくシリアス役の呪縛から解脱。「もう僕、知んなぁ〜い」「やんちゃ君、お宅の座長っていっつもこんななの?こりゃ大変だねえ〜」etc...。本当は自分はシリアスな役なのに、「そうはさせまい」とする、盟友・おもちゃが張り巡らせる緻密な策略。ひたすら耐えてきたダムが決壊するがごとく、ついに脱線してしまうまでの、長二郎の葛藤が見事に和歌山人好みの芝居の味付けとなった稀有な例である。当然「待ってました」とばかり大爆笑の和歌山人。笑いすぎてハンカチで涙をぬぐう観客も相当数いたようだ。そんなわけで公演が定刻に終了するはずもなく、30分近くも押すという大変なオーバーハングに。そして結果は昼・夜ともダブルの大入り、〆てフォースの大入りというとんでもない観客動員を記録。昼・夜とも、どう見積もってもこれ以上は劇場に入れられない極限の動員数で、ぶらくり劇場の歴史に大きな一ページを記した。ちなみに当日は劇場の出入り口を全て開放しそこから見える席も作り、置けるところには全て、椅子という椅子を全て動員(チケ売り場や事務所の椅子も)し、それでも立ち見が相次ぎ、村野をはじめとする劇場スタッフの度胆を抜いた。長二郎は当日の朝、ぶらくり劇場へ到着するなり、ロビーの床に全身をべったり伏せて「ぶらくり劇場だぁ〜!あぁ〜懐かしい〜(泣)」と感慨深げに劇場・スタッフとの再会を喜んでくれた。ここまで劇場を愛してくれる座長も珍しい。

さて、これらの劇団は知る人ぞ知る、いずれ劣らぬ人気劇団ばかりであるわけで、考えてみれば和歌山の客はラッキーなのである。これほどの有名劇団が連続して公演を行なうことなど、地方都市、しかも大衆演劇が市民の娯楽としてはまだまだ浸透していない、かつての大衆演劇空白地帯では異例の事だ。今後、これを読んでいる和歌山人のあなたも、何かの縁で観劇する機会があるかもしれないが、その時になって「オープン直後はどえらい劇団がバンバン乗っちゃあったんやで」と言われ、かつての貴重な時期に遠が無かったことに後悔の念を感じることになるかもしれない。観劇はお早めに。知人の方々なら、一緒についていってあげますができれば観劇料はそっち持ちでお願(ry
 

 最後に
どこの劇場・センターにどの劇団が乗るかは、劇場・劇団の意向ももちろんあるが、最終的にこれを決定するのは大衆演劇のプロモーションを行なう興行サイドだ(なんとか演芸社とか、なんとか演劇組合とか)。今のところはここまで、和歌山に大衆演劇を根付かせるため、興行サイドはぶらくり劇場のオープンからA級劇団を連続して乗せてくれている。しかし、いつまでもA級劇団ばかりを和歌山へ乗せるわけにもいかない。いずれはB・Cといった発展途上の劇団公演もセットされていくことになる。ぶらくり劇場の真価が問われるのは、まさにそんな時であろう。知らない劇団でも「一度は観てみるか」という気にさせること、そういう雰囲気を和歌山に浸透させること、これが冒頭でも述べたとおり、ぶらくり劇場の使命でもある。

多くの劇団は、旧態依然とした大衆演劇の性質を打破するため、どんどん新しい試みにチャレンジし、変化しようとしている。その努力の甲斐あってか、新たなファン層の取り込み、裾野の拡大に成功しつつあることを先に記述した。芝居や踊りも、昔の田舎芝居とは比較にならないほど進化した。しかし正直、大衆演劇の演目には確かに「臭い芝居」もある。しかし、この「臭さ」は日本人が長年培ってきた、とても大切なものを内包している。それは例えば「人情」であったり「愛」であったり「信念」であったりするわけだが、考えてみればそれこそ現代の日本人に忘れられつつあるものなのではないか。それは私も、あなたも、例外ではありえまい。日本人の忘れ物が、そこにある。その大切なものを取り戻す作業は、悲しいかな普通に生活していては、縁遠いものであるかもしれない。そんな今だからこそ、大衆演劇の持つ「復元力」をあなたに感じ取って頂きたいのだ。汗を流し、声を枯らし、一生懸命に舞台を勤める役者が、あなたの目の前で演じる大衆演劇。彼らのメッセージは、きっとあなたにも届くはずだ。もちろん、爆笑喜劇に笑い、人情劇に泣き、美しい舞踊にため息をつくなど、観客がそれぞれの楽しみ方ができる。気付けば3時間なんぞアッという間に過ぎてしまうのだ。

やや躓きながらもまずまずの滑り出し、といったところの紀の国ぶらくり劇場。設備や興行支援の面、またぶらくり丁全体のチームワーク(本編では語らなかったが、ぶらくり丁復興に関する取り組みについて、積極派と消極派との温度差が大問題となっており、復興の足かせとなってしまっている)という点などでまだまだ課題は山積しているが、ぶらくり劇場を訪れる観客、「大衆演劇ファン代表」として劇場運営に全力投球するオーナー・村野、劇場スタッフ、出入りの業者、小道具や知恵を提供してくれている劇団、そして村野を慕うボランティア(無理矢理に拉致られた感のある、たかさん含む)が力を結集し、手作りで育てているこの劇場に、是非一度は足を運んでもらいたい。昔のイメージとはかけ離れた水準にある現代の大衆演劇を、そして同時に昔と変わらぬ大事なものを内包している大衆演劇を、肌で感じてもらいたい。あなたが探している「忘れ物」が、ここにあるはずだ。

 関連情報
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