はじめに

 五世紀の生活の描写というものには、どのような読者にとっても苦痛なものがたくさんあるに違いないし、若く無垢な人にとってはまったく読まないほうが良いかも知れないものである。非常に偉大な時代であったには違いないが、非常に忌まわしい時代であったとも言わざるを得ない。人類史上の重要にして危機的な時代の一つであり、美徳と悪徳とが——時には同一人物のなかにさえ——驚くほど極めて公然と力強く、相並んで現われている。そのような時代について書く者は、益体も無い厄介に苦しむのである。人々がいかに邪悪であったかをあえて語らないこととする。すると、人々がいかに善良であったかを語っても、信じてはもらえまい。本書の場合、不利益は倍である。何しろ教会の罪は、忌まわしいことではあるが、それでもそのようなものとして言葉で表現できるものの、教会が敵対していた異教世界の罪のほうはまったく言い表し難いものだからである。そのためキリスト教の弁明者は、体面を慮って、教会の場合については事実そうであったのよりも手加減して語らざるを得ない。

 常に忘れてはならないことだが、本書の女主人公にも、数世紀に渡る彼女の学派の主要な哲学者たちにも、少しも不道徳を疑われるところは無かった。彼らの弟子たちがどれほど卑しく放蕩であったとしても、彼らは偉大な新プラトン派の徒であった。マニ教徒たちがそのようであったとしても、マニ自身は極めて厳格で禁欲的な徳を備えた人であったのと同様である。

 というのも、高潔なりと気高く自負していない教師は誰も、聴講を期待できない時代になっていたからである。あの神の言葉、「もろもろの人をてらす真の光ありて、世にきたれる」人が、孤絶した数人の哲学者や預言者を別とすれば、かつていかなる力にも感じられたことのない道徳的な渇望を人類の心に呼び起こしたのである。霊はすべての肉に注がれ、帝国の隅から隅まで、製粉所の奴隷から玉座に座した皇帝まで、万人の心が正しさを渇望し、行いの正しい人々を賛美することを学んだ。そして渇望を呼び起こした主は、その渇望を満たすものも与え、長く困難な教育によって無数の贋物から真実を区別することを教え、またこの世の生において初めて、少数の選ばれた者だけでなく、階級や人種にかかわりなく人類すべてのための福音を見出すすべを教えたのである。

 四百年あまりの間、ほとんど同時期にこの世に出現したローマ帝国とキリスト教会とは、人類を我がものとすべく死闘を続け、二大対抗勢力として相並んで発達してきた。帝国の武器としては、圧倒的な物質力や侵略的征服への無慈悲な渇望だけでなく、これはさらに強力でさえあったのだが、管理機構に関する比類の無い天分や、法形式と秩序に対する一元的な体系もあった。これは一般的には、征服された国々にとって実際にありがたいものだった。というのも、野蛮な戦争行為という恣意的で偶発的な惨事の代わりに、固定的かつ規則的な掠奪が行われたからである。他方しかし、これは帝国側についたあらゆる属州の富裕市民が、その下で労役する大衆から分け前を横取りするままにしておくことによって為されていた。こうした大衆は田舎の地方では完全に奴隷化し、他方、都市では、政府が施しによって大衆を飢餓から遠ざけておくうえで名目上の自由はほとんど役に立たず、大衆は公共の見世物という途方も無い制度によって粗暴な気分に引きずり込まれていたのだが、この見世物によって低俗な大衆の残忍性や渇望や驚異を満足させるために、自然と人為の諸領域を荒らしまわることとなった。

 この途方もない機構に対抗してそれまで四百年間教会は戦ってきた。身に佩びる武器といえば、教会自体の力強くすべてを包む言葉と、霊の清らかさや徳、愛や自己犠牲の顕現だけだったが、これは人心を一つに溶合することにかけては、帝国がそれでもって福音と戦ったいかなる恐怖や権力、機械的な機構、淫らな誘惑よりも強力であり、そうしたものは福音においては一目で直観的に内なる敵であると分かることを示してみせた。

 今や教会が勝った。この世の弱者が強者を打ち負かしたのである。迫害者たちの悪魔のごとき虐待にもかかわらず。教会を取り巻く罪の気配に汚染されていたにもかかわらず。抽出された純粋な被造物の一種からではなく、教会を侮辱し迫害した堕落の極みの大衆から、まったく文字どおりの「新生」によって教会を形成しなければならなかったにもかかわらず。教会内部にたえず噴出する邪悪な激情に教会員が留まることなく耽溺するのを、教会は耐えなければならなかったにもかかわらず。教会の内外に千もの贋物が生じて教会の一派であると称し、その主張を裏切るものなのだが、その非常な排他性や党派的傲慢さによって人々を引きつけもしたにもかかわらず。そうしたすべてのことにもかかわらず、教会が勝った。ほかならぬ皇帝が、教会の側についたのである。帝権の影響力によって異教を回復しようというユリアヌスの最後の試みはただ、古い信仰が大衆の心をまったく捉えなくなったことを証明しただけだった。ユリアヌスが死ぬと新思潮の大波は何の妨げもなく流れ行き、世の指導者たちはその流れを泳がざるを得ず、少なくとも言葉のうえでは教会の法を自らのものとして受け入れ、自分たちですら王の中の王たる主に忠誠を誓って服従する義務があると認め、自分の奴隷を自分の「より貧しい兄弟」と呼び、またしばしば自分たちよりも「霊的に優る人」と呼びもしたのである。

 しかし皇帝がキリスト教化しても、帝国はそうではなかった。あちこちで虐待が除かれ、監獄視察や囚人福祉のための勅令が出された。またテオドシウスは、アンブロシウスのような人の厳しい非難によって、しばし正義や人間性に心を向けもした。しかし帝国は未だに同じだった。未だにひどい暴政があって大衆を奴隷化し、国民生活を破壊し、世界的な規模で強奪するその機構の元で帝国自体もその官吏も肥え太り、帝国が至高であるかぎり人類に希望はあり得なかった。いやキリスト教徒のなかにさえ、後のダンテのように、「コンスタンティヌスの致命的な贈り物」、つまり教会と帝国との休戦のうちに、新たな、そしていっそう致命的な危険を見た人もいたのである。人間の別のあり方を根絶やしにした自らの毒樹ウパスの影を、帝国は教会そのものにまで広げようとしたのではないか。また教会を俸給づくの公用奴隷にして、従順であれば優遇するが、教会自体の自由意志を、教会の主である暴君を凌駕するある種の法をあえて主張するならば常に罰しようというのではないか。手の込んだ偽善によって、帝国がその生き血を啜っている大衆を、教会に養わせ面倒を見させようとしたのではないか。多くの人々がそう考えたのは、浅はかなことではなかっただろう。

 しかし、五世紀初頭の文明世界の社会的条件が異例だったとすれば、その精神状況はさらに異例だった。四世紀間におよぶローマの支配下で人種、言語、慣習がいたるところで融合し、それに応じて、信条の融合が、人間の思想や信仰の動揺が生じた。古くから地方にある迷信的異教に対する真の信仰はすべて、さらに明白で物質的な皇帝崇拝という偶像崇拝を前にして、とうに廃れていた。民族の神々はその信者を手放すことはできず、一柱また一柱と「神君カエサル」の眷属神となっていった。哲学を知る富裕層には無視されたが、下層階級にだけは崇拝されており、その古い祭祀はなおも下層民の卑しい欲に迎合して、どこか特定の地方の地位や富の助けになった。

 その一方で人間の心は、古代からの拠り所であった投錨地から切り離されて漂流し、思索的懐疑の道無き海を無闇にさまよって、ことに、いっそう形而上学的で瞑想的である東方では、 見えざるものと人間との関係についての疑問を、千もの分派や異端や神智学(これを哲学と呼んでは哲学という言葉の面汚しである)によって自力で解決しようとしたのだが、その記録を見ると、今の研究者は彼らの夢想を数えることも説明することもできずに当惑する。

 だが、人間思想の自由な噴出はみなそうだが、こんなものでも効果もあれば成果もあった。教会が自らを人間の魂を満足させる偉大な教師だと言い張る以上は解決しなければならない千もの新たな問題を、教会員の心にもたらしたのである。人間生活の波の一々から噴出して形成されるこうした泡沫を研究すること。アウグスティヌスが感じたように、悲しい経験によってあまりにもしばしば、そうしたものの魅力に魅惑を覚えてしまうこと。それらが代替物として提供する虚偽から、それらの目指した真理を区別すること。教会が公布した偉大な事実において、病んだ時代の最も精妙な形而上学的渇望でさえも十分に満たす力をカトリック教会は持っていると示すこと。——それがこの時代の仕事だった。そのために人が派遣され、その知的革命を引き起こした当の原因が、その労苦の助けとなったのである。思想、信仰、人種全般の混淆や、帝国の異なる地方が交流するための単なる物理的な便宜でさえもが、四、五世紀の偉大なキリスト教教父たちの観察の広さや、思考の深さ、大きな心、大きな了見で耐えて認容することを助けていたのだが、敢えて言わせてもらえば、これは以降、教会が稀にしか持たず、俗世はまったく持つことが無かったものである。少なくとも、そうした偉大な人々が持たなかったものによってではなく、持っていたものによって判断するのであれば、また、彼らが当時ではなく今生きていたなら、当時の人々のうえに抜きん出ていたのよりも遥かにまさって、現代人たちのうえに聳えていたと信じるのであれば、そう思わずにはいられない。かくしてその時代は、ギボンのような冷笑家の浅薄な洞察からすれば、官能と無法の腐敗した無意味な混沌、狂信と偽善しか見えないが、クレメンスアタナシオスクリュソストモス、アウグスティヌスのような人を生み出したのだった。ギリシャやエジプトの諸哲学における、また後世の国々の家宝となるローマの社会組織における最も価値あるものすべてを、キリスト教の領域へと吸収した。そしてヨーロッパの思想や倫理すべての基礎が、無意識の媒介者によって諸外国に据えられたのである。

 だが教会の健全さは、それが公言する信条だけでなく、少数の偉大な聖職者の知恵や聖性にすら拠るものではなく、個々の教会員の信仰や徳に拠るのである。健全な精神は宿るべき健全な肉体を持たなければならない。西方教会にとってさえ、教会の気高い未来は、ローマの影響によって干からび腐敗していた世界の血管により健康な新しい血を入れない限りは、有り得ないものだった。

 その新しい血は、この物語の時代には手の届くところにあった。ゴート族は、ノルウェー人やドイツ人をその最も純粋な原型とするもので、ジブラルタルからサンクトペテルブルグにいたるまでヨーロッパの国はどれも勢力の最も貴重な要素を彼らに負っていたのだが、そのゴート諸民族の大波が、波に波を重ねて先へと押し進み、南西に向かう絶え間ない流れとなってローマ全域を横切り、地中海の海岸についてやっと止まって引き返してきた。この蛮族が、西方教会の影響の不思議な領域に、未来のキリスト教世界を建設するのに必要だが、東ローマ帝国でも西ローマ帝国でも同様にほとんど見つからなかったまさにその素材をもたらしたのである。つまり、より清らかな道徳、女性や、家庭生活や、法や、公平な裁判や、個人の自由や、そして何よりも言葉においても行動においても誠実であることに対する神聖な尊敬、遺伝的惰弱に染まっていない肉体、温厚にして厳粛な心、自分の見下す相手からでも学ぼうとする強い意欲を持つ胸、実際的な力においてはローマ人に匹敵する頭脳、東方人にそう劣るものではない想像力と思索力の鋭さ、などである。

 ゴート族の勢力はただちに感応した。彼らの先兵隊は、流血の戦争を代償に、困難ながらも三世紀間、東アルプスの向こうに留められていたが、実行可能なときにはいつでも帝国の軍務に採用されていた。ローマ軍の核心部はゴート族の将官や兵士によって構成されていたのである。だが今や本隊がやってきたのだ。部族に部族がつづいてアルプスに集まり、帝国の辺境を蹂躙していった。単独では彼らに劣るフン族が、抵抗し難い数の重みでゴート族を背後から押し出した。豊かな都市と肥沃な低地のあるイタリアは、ゴート族を略奪へと誘った。彼らは補助軍として、自分たちの強さとローマ軍の弱さを知っていた。開戦の口実はすぐに見つかった。帝国を攻撃しないようゴート族を買収してきたいつもの賜金を拒絶するとは、テオドシウスの息子のふるまいは何という不正か! せき止められていた氾濫がすっかりイタリアの野にあふれ出し、その日以来西帝国は瀕死の白痴となっていったたが、新来の侵略者のほうは自分たちの間でヨーロッパを分割した。この物語の十五年前にギリシャの運命は決まっていたし、ローマの運命も四年前には決まっていた。五世紀間にわたる略奪によって首都に集積された数え切れない宝物が、羊皮馬革を纏った男たちの餌食になった。皇帝の妹が、その美貌と徳と血統の誇りが北方の勇士の武骨な手に十分釣り合うと見なされ、捕虜として、そして花嫁としてイタリアから連れ去られたのだが、その勇士は南フランスとスペインに新たに王国を建てて、新たにやってきたヴァンダル族を、ジブラルタル海峡を渡って当時繁栄していた北アフリカの海岸地帯へと追いやった。古い世界の四肢はいたるところで細切れにされてメーデイアの釜で煮られ、無傷で、若く、強くなって出て来ようとしていた。一族中で最も高貴な長髭族は、スウェーデンの山々から南に向かって長く放浪した後、仮の休み場をオーストリアの辺境に見つけたが、接近してきたフン族によって間もなく追放されてアルプスを越え、ロンバルディアの野に彼らの名を永遠に与えることになった。動乱はなおも数年続くが、フランク族が自らを下ライン地方の主と見なすようになる。そしてヒュパティアの弟子たちの髪が灰色にならないうちに、あの神話的なヘングストとホルサがケントの海岸に上陸し、イギリス人は世界的に生活し始めることになった。

 だが偉大なる神意は、他のどの方面でも勝利していた我々の民族に対して、地中海を越えて、いやコンスタンチノープルにすら足場を持つことを禁じ、そこはヨーロッパにおいて今日までアジアの風習や信仰を保っている。東方世界は何か断固とした運命によって、再生を可能にする唯一の影響から隔てられているようだ。海の向こうに地歩を固めようというゴート系民族の試みはどれも、ヴァンダル族がアフリカでやったように王国を樹立するというかたちであれ、ガイナス旗下のゴート族が小アジアでやったように単なる匪賊の一党というかたちであれ、または中世にヴァラング人たちがやったように近衛軍というかたちであれ、十字軍のような宗教的侵略というかたちであれ、入植者たちの腐敗や失踪に終わるのみだった。サルウィアヌスやその同時代人に従うならば、ヴァルダル族の征服者たちが北アフリカにおいてなした道徳上の並外れた改変は、彼らに資するところは無かった。彼らは与えた以上のものを失った。気候、悪例、勢力ゆえの驕りが、一世紀間のうちに彼らを救いようも無く退廃した奴隷所有者の一族へと堕落させ、ベルサリウスの半ゴート軍を前にして絶滅することを運命づけた。そして彼らとともに、西方世界を生き返らせた厳格ではあるが健全な修養を、ゴート系民族が東方世界に施す最後の機会が消えたのである。

 従ってエジプトやシリアの教会は、自分たちではなく我々のために働く運命になった。彼らにおいては病衰老衰の兆候は既にあまりにも明白だった。彼らを当時の世界における偉大な思想家たらしめていたギリシャ的東方的精神の特殊傾向自体が、実践から瞑想へと彼らを引き離す働きをしたのである。エジプトやシリアの諸民族は、血統を更新する新しい血が何世紀間も入っていなかったせいで、女々しくなり、文明化されすぎ、疲弊していた。病的で、自意識過剰で、精神的に怠惰であり、今と同様当時も、個人的にも政治的にも自由になれず、容易に狂信者を生み出す素材はあっても、神の国の市民を生み出す素材は無かった。家族と国民生活という観念自体は——これは教会の神聖な二源泉であり、そこから切り離されれば教会は確実に衰えて、宗教的世界はこのうえなく邪悪で残酷な妖怪に成り果てるものなのだが——奴隷所有という一般的慣行の悪影響によって、また同様に何世代にもわたってこうした観念の偉大な立証者であったあのユダヤ民族の退廃によって、東方では消滅した。すべての階級が、彼らの父祖であるアダムのように——実際、すべての人、すべての世代における「古きアダム」のように——古い言い草だが『汝が与へて我と偕ならしめ給ひし婦彼其樹の果実を我に与へたれば我食らへり』と言って、罪の責任は自分の良心にではなく、人間関係や義理にあるとし——その点ではそこに彼らを置いた神の——せいにしたのである。東方人の激しい性格からして、弱いものは皆そうだが、節制するよりは完全に禁欲するほうが容易だと思い、善行よりも信心のほうが楽しいと考えた。東方のいたるところに修道界が発展し、エジプトにおいては俗人人口に匹敵すると言われるほどの数に広がって、道徳的悪事がおそろしく減少したのとともに、それに等しい人口の減少と多大な弱体化を引き起こしたのだった。そのような人々は、着実に強まる東帝国の暴政に何ら抵抗することができなかった。クリュソストモスやバシレイオスのような人が個人的影響力で、ビザンチン宮廷の忌まわしい悪事陰謀に抵抗したが無駄だった。西方教会が上昇発展するのに相並んで、東方教会は衰微し続け、その成り行きは、なおも惨めな二世紀間、留まることが無かった。大聖グレゴリウスの後継者たちが新生ヨーロッパを改宗させ、文明化させているかたわら、東方の教会はムハンマド教徒の侵略者を前にして消滅した。ムハンマド教徒は生きている神に対する生きた信頼のおかげで強かったが、キリスト教徒たちは神を論じて互いに憎み迫害し合うことによって、生活行動の一々において神を否定し、冒涜していたのだから。

 しかし本書が扱う時代においては、ギリシャ的東方的精神はなおもその偉大な活動を続けていた。その驚くべき形而上学的明敏さは、文言だの定義だのは我々のもっと低俗な知性にとってはしばしばあまりにも無意味なのだが、人間性という問題の一切は同一であることと相似であることとの区別にかかっていると感じ、そこに最も重要な精神的実在の象徴を見、ギリシャ哲学の古代の要塞であるアレクサンドリアにおいて、その街の並外れた文化がまさにそれに負うものである科学的思考自体の残りかすと争うこととなった。家族や国民としての義務から離れて修道院に籠もることは、何はともあれ、生涯をかけた問題に真剣に直面するという仕事をする時期にある父たちに余暇を与えることになり、彼らには特に相応しいものだったのだが、これはもっと社会的で実際的な北方人には不可能な仕事であった。衒学的な夢想家だとして彼らを冷笑するかわりに、自分たちにはできたためしの無いことを代わりにやってくれる人が折りよく見つかったのを、我々は天に感謝するすべきだ。従来は衰退しか見出されて来なかったあらゆる改良の試みを、キリスト教的であると同時に科学的でもある形而上学を、まさに彼らの民族の生き血で購った貴重な遺産として、我々に残してくれたのである。衰退したギリシャ哲学がエジプトの象徴表現や、カルデアの占星術や、パーシー教徒の二元論や、バラモン的精神主義との間にもうけたひと腹のあの奇妙な理論上の怪物と戦って勝ってくれたのだ——こうした優雅で華麗な幻影についてはいくらかもう少し、以下の章で語るつもりである。

 ヒュパティアとその運命を素描するにあたって私は、信頼できる歴史書、特に最後の場面については『教会史』七巻第十五章にあるソクラテスの説明に厳密に沿った。しかし様々な歴史的理由から、彼女の没年については、ソクラテスのものより二年早くしたい。彼女が哲学者イシドロスの妻であったという伝承については、ギボンに同意して否定する。少なくとも五十年の明白な時代錯誤であるし(イシドロスの師であるプロクロスはヒュパティアの死の前年まで生まれていなかった)、そのうえその伝承の筆者であるポティオス本人が、ヒュパティアとイシドロスを比較した後で、イシドロスは「ドムナ」某と結婚したとはっきりと述べているのである。そのうえ、彼女が結婚していたことを匂わせるものは同時代の著者には見当たらないし、シュネシオスはヒュパティアへの書簡の中で、大勢の双方の友人への伝言を送っているのだが、イシドロスの名前はそのなかのどこにも出てこない。もし夫がいたのであれば、どこかに夫への言及が出てくるのが見つかるはずなのだが。五世紀の私生活に関する更なる情報を求める読者に対しては、シュネシオスのこのうえなく魅力的な書簡の数々や、同様にペルシウムの良き僧院長であったイシドロスの書簡を参照してくださるよう願いたい。

 本書が時代錯誤や誤謬を完全に免れているとは期待できない。私が言えるのはただ、最も些細な細部であっても誠実に勤勉に真実を発見しようと努め、自分が見出したとおりに——まったく作為的でだらしなく退廃しており、プラトンやソクラテスの時代よりもルイ十五世の時代によほど似ている時代として——その時代を、その時代の風俗や文学を描写しようとしたということだけである。そこで私は、私の誤りを摘発することによって、若い教会と古い世界との最後の戦いについていくらかでも私や一般読者に教えて下さるであろういかなる批評家にも、心からの感謝を送る心づもりをして、この小著を出版するものである。

最終更新日: 2001年11月4日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com