第4章 ミリアム

 同じ週のある朝、お気に入りの婢女が怯えた顔でヒュパティアの部屋に入ってきた。
「ユダヤの婆さんが、お嬢さま——ここんとこ向かいの塀の下からしょっちゅう覗いてた妖婆です。夕べも覗かれてあたしらみんな恐くて気が変になりそうでしたよ。邪眼ってのを持ってるやつがいるならあいつだ、ってみんな言ってて——」
「で、その人がどうしたの」
「下に来てて、お話したいって言うんです、お嬢さま。あたしは妖婆なんて心配じゃないです、魔除けを持ってますし。お嬢さまにもお持ちだといいんですけど」
「馬鹿な子ね。私みたいに神々の秘儀を授かった者は、精霊なんてなんともないし霊を制御できるのよ。パラス・アテナの寵児が魔力や魔法なんかを気にしてやると思うの。さあ、上に寄越しなさい」

 婢女は、主人の高潔な構えを畏敬半分、疑い半分に見ながら退出し、ミリアム婆を連れて戻ったが、しかし慎重に老婆のうしろになるようにしていた。婢女はバシリスクの眼に怯えていて、自分の魔除けの効力をできるだけ試さずに済ませようとしたのである。

 ミリアムは入って来て、座したままの高慢な美女に近づき、床に届かんばかりに頭を下げたが、一瞬たりともヒュパティアの顔から眼を離さなかった。

 老婆の顔はげっそりと骨張り、唇は鋭く切れ込んでいて幅が広く、強さと淫らさの奇妙に入り交じった表情を刻み込んでいた。しかし老婆の容貌のうち、ヒュパティアの注意をすぐさま捉えたのは、乾いてぎらぎら光る石炭色の目だった。金貨で覆われた黒いほつれ毛の間、黒ずんだ眉の灰色のふさ毛の下から睨めつけるその目から、ヒュパティアは注意を逸らすことができなかった。この目以外何も見られず、哲学に反するほど怒りをつのらせて彼女は真っ赤になった。老婆が目を見させるよう仕向けているのを見てとり、明らかに老婆が使おうとしている不思議な力を感じたからだ。

 しばしの沈黙の後ミリアムは懐から書状を引っぱり出し、もう一度深く頭を下げてそれを差し出した。
「これはどなたから」
「書状自体が語りましょうや、麗しきお嬢さま、幸いなる明敏なお嬢さま」とご機嫌をとるような媚びへつらった調子で老婆は答えた。「あわれなユダヤの婆が、なんでお偉い方々の機密を存じましょうや」
「偉い方々?」——
 書状に巻きついた絹の細ひもの封緘をヒュパティアは見た。オレステスの封緘だ。それに手跡も……彼がこんな使者を選ぶなんて変だ。このような機密を要し得る知らせとは何だろう。

 ヒュパティアは手を鳴らして婢女を呼んだ。「この方に前の間でお待ちいただきなさい」。ミリアムは音もなくうしろへさがり、行きがけに一礼した。誰もいないか確認しようと書状から目を上げて、あの目の最後の一瞥がまだ自分に据えられていることにヒュパティアは気づいた。ミリアムの顔の何らかの印象が、なぜか知らずヒュパティアにぞっと寒気をもよおさせた。
「馬鹿な私。あんな魔女が私に何だとというの。でも、今は書状だわ」
「アテナの愛でし至高絶美の哲学者の女王さまへ、その弟子にして奴隷が御挨拶申し上げます……」
「私の奴隷! それに名前を出していないわ」
ホノリウスの寵愛する帝都の名を持つ雌鶏は新たな飼養者のもとではさらに肥育するであろうとして、アフリカ総督は当面——少なくともアタウルフプラキディアのおらぬ間は、当人と不死なる神々の意によって、カエサルの放禽場を監督せんがために馳せ参じよう、と見る向きがございます。また、アタウルフ他行のうちにヌミディアの獅子は説伏されてエジプトの鰐と提携するやも知れず、かくのごとき一対の耕す農園は上の滝からヘラクレスの柱まで広がろうと考える者もあり、これは哲学者にとっても魅力があるかと。しかしながら農夫にニュンペーがおらねば、アルカディアは不完全。アリアドネ無くして何がディオニュソスアプロディテ無くして何がアレスヘラ無くして何がゼウスでありましょう。アルテミスにすらエンデュミオンがおりました。アテナのみは結ばれぬままなれど、それはヘパイストスが求愛者として粗暴すぎただけのこと。さて今、アテナに生き写しのお方と好機を分かち合わんと申し込んでおる者は左様な粗暴者にはあらず、この好機はそのお方のお知恵の助力あらば好機となりましょうけれど、お助け無しには実りませぬ。賢者にとっては声あるもの。世々に渡って無敵のエロースが、かつて弓引きしものらのうちで至高の高貴な得物に対して終の終に躊躇うべきかは」……

 つい先ほどユダヤの老婆のまなざしに見下されてヒュパティアは色を失ったにしろ、この奇妙な手紙を一行また一行と読み進むにつれて、たちまち顔色はすっかり紅潮してきた。そして終には手紙を手の中で握りつぶし、立ち上がって隣りの書斎に急ぎ入った。そこではテオンが座って本を覗き込んいた。

「お父さま、これのこと何かご存じ。 無法にもオレステスがユダヤの卑しい魔女なんかの手で送りつけて来たのよ。見て」——そうして彼女はテオンの前に手紙を広げ、全身に湧き上がる怒りと自尊でいらいらして立っていたが、老人はゆっくりと注意深く手紙を読み、やがて目を上げたが、手紙の内容をさして不快には思っていないのは明らかだった。
「どう、お父さま」と彼女はいくらか咎めるような調子で訊ねた。「感じないの。娘に加えられたこの侮辱を」
「愛しい我が子よ」途方にくれたまなざしだ。「分からんのかね、彼がおまえに申し出ているのはつまり——」
「分かってます、お父さま。私に何を申し込んでいるのかは。アフリカ帝国……学知の高嶺、言葉にできない不変の栄光の観想から降りて、悪臭を放つ野、地上的な物質的生活なんぞという農家の庭に下ることになるのよ。そして政治的な言い抜けだの、ちっぽけな野心だの罪だの、地上的な群畜の欺瞞の間であくせく働く者になれと。……そして彼が——私に、穢れなき者に——乙女である私に——自主独立した者に申し出た代価は——彼の婚約の手! おおパラス・アテナ、汝が子を恥じざるや」
「しかしおまえ——我が子よ—— 一帝国が——」
「世界帝国が私の奪われた自尊を——あるべき誇りを取り戻してくれるというの。妻という屈辱的な忌まわしい名を負う身だと思い出すたびに頬が赤らむ、それを帝国が防いでくれると。一人の男の所有物——人形——その男の快楽に屈従して——その者の子を産んで——妻たる者のむかつくような世話事一切に身をすり減らして——もう、自分は純潔で自立していると誇りに思うこともできない。昼も夜も思い出さされるのよ、自分の美しさ自体がもはや私に対するアテナの愛の秘跡ではなくて一人の男の慰みものなのだと——あんな、あんな男の。ちゃらちゃらして浅はかな、心無い男——あの男は何年も付き合ってくれと私に言い寄っていたけれど、ただ単に、神々の祭壇からおこぼれの切れ端を拾い上げて、自分の卑しい地上的な用にあてるためでしなかった。気を持たせすぎたのよ——私のしたことは虚しい愚行だった。いいえ、私自身に対して不当だった。あれはただ——そう思ったのよ——あの男がうちの戸口にいる所を見せれば、不死なる神々の理想が多衆の目にも名誉と権勢のあるものに見えるだろうと思ったの……。私は天上の祭壇に地上の薪をくべようとしていたのだわ……そしてこれがまさに私に対する報いなのね。今すぐ書こう——彼が寄越したおあつらえの使者で返信してやるわ。侮辱には侮辱を、よ」
「天の御名にかけて、我が娘よ。——おまえの父のために、私のために——おおヒュパティア、おまえは私の誇りであり、喜びであり、希望なのだよ——白髪の私を憐れんでおくれ」

 そしてあわれな老人は娘の足元に跳び寄って、嘆願するようにヒュパティアの膝に縋った。

 ヒュパティアは父を優しく立ち上がらせ、すんなりした腕で父を抱きしめ、父の頭を自分の白い肩にもたせかけた。ヒュパティアの涙がすっとテオンの白髪に零れたが、しかし彼女の唇は決心に固く結ばれていた。

「私の名誉を考えておくれ——おまえの栄光は私の栄光。私のことを考えておくれ、いや……私のためではない。知っているだろう、私は自分を気にかけたことは無い」と老人はすすり泣いた。「だが、皇后になったおまえを見て死にたい」
「早々に産褥で死ななければね、お父さま。奴隷になるほど弱く、奴隷にしか相応しくない拷問に甘んじる大半の女はそんなふうに死ぬけれど」
「しかし——しかし——」と混乱した頭をふりしぼり、この美しい狂信者に訴えかけられる、本性や常識から離れた論拠を求めて老人は言った。——「だが神々のためだ。神々のためにおまえは何をするべきか。……ユリアヌスを思い出しておくれ」

 急にヒュパティアの腕が落ちた。そう、それは真実だった。喜びと恐れの入り混じったそんな考えが心をよぎってひらめき……幼い日の光景が素速く次々と浮かんできた——神殿——供犠——司祭団——結社——ムーセイオン。何ができないというのか。アフリカが何だというのか。十年の権勢を我が身に与えよ。そうすれば、キリスト教徒という忌むべき名は忘れ去られ、黄金と象牙でできたアテナ・ポリアスが異教アレクサンドリアの港を穏やかな勝利のうちに見渡すことになるのだろう。……だが、その代償は!

 ヒュパティアは手で顔を覆い、苦い涙に暮れながらゆっくりと自室へ歩み入った。彼女の全身は心のあがきで引き攣っていた。

 老人は困惑した心配そうな様子で見送り、それからためらいながらあとに続いた。ヒュパティアは手で顔を覆って机の前に座っていた。彼女をことさらに煩わせるようなことはしなかった。老人を日々養うその愛情や知恵や輝かしい美のすべてに加えて、彼女が大胆にも主張するように娘はそうした超自然的な力や愛顧を得る身だとテオンは信じていた。老人は入り口に立って彼女を見守り、あらゆる神と神霊、主権者と権能者、上はアテナから下は我が娘の守護霊にいたるまで、この娘の決意が動じますようにと全霊で祈った。彼女の決意を否定するには老人は弱すぎ、また肯定するには理性的すぎたのだが。

 ついに苦闘の時は終り、ヒュパティアはまた明るく穏やかに晴々とした様子で顔を上げた。

「そうするべきだわ。不死なる神々のために——芸術と学問のため、研究のため、つまり哲学のためにも……やらなければ。神々が犠牲をお求めなら、ここに私がおります。乙女が犠牲にならなければ、ギリシャ艦隊が勝利し啓蒙して出帆する日は、何世紀もの歴史の中に二度と無いというなら、私の喉を刃に差し出すわ。お父さま、もう私をヒュパティアとは呼ばないで。イーピゲネイアと呼んで」
「で、私をアガメムノンと?」と喜し涙をおして効かない軽口をたたこうとして老人は答えた。「言わせてもらうが、ひどい父親だと思っているだろうね、しかし——」
「止して、お父さま。もう良いの」

 そしてヒュパティアは返事を書き始めた。
「あの男の申し出を受けますわ——条件つきで。要するに、条件をのむ勇気が彼にあるかどうかによるの——どんな条件かは訊かないで。キュリロスがキリスト教徒群衆を率いているうちは、私の答えを全部知っているわけではないと否定できるほうが安全でしょう、お父さま。喜んで。こう言ったのよ——私があの男にさせたいことを彼がやるならば、お父さまが私にさせたいことを私はやると」
「性急すぎやせんか。何か彼が公の評判を慮って、あえてあからさまには認めとらんことを要求したんじゃあるまいね。今後おまえが自分で何かするのを彼が許すとしても、それはひとたび——」
「要求したの。私が犠牲になるのなら、犠牲を屠る神官は少なくとも人たる者でなければ。臆病者や日和見主義者では駄目よ。あの男がこんなキリスト教徒の信仰を信じるというなら、私に逆らってキリスト教を守るがいいわ。だってキリスト教か私か、どちらかが滅びるべきだもの。キリスト教を信じないというのなら——彼は信じてなんかいないわ——嘘まみれで生きるのは諦めさせて、不死なるものへの冒涜の言葉を口するのは止めさせる。心も理性もあの男は不死なるものから背けているのよ」

 そしてヒュパティアは再び手を鳴らして婢女を呼び、黙って手紙を渡すと自室の扉を閉め、自分の取り組んでいるプロティノスの注解にとりかかろうとした。ああ、細ごまとした形而上学的夢想。こんなものは皆、人間的な現実問題に心あがく者にとって何だというのだ。個々の魂が普遍的一者から流出する過程を解明したところでいったい何の役に立つ。自分の魂は自ら責任を負ってあんな恐ろしい意志行為を決定しなければならないというのに。紙筆を以て最高知の不変性について精妙な言葉を記したところで何になろう。自らの知性が、唸りをあげる疑いと闇の寄る辺無い空費の最中でその生の苦悶に立ち向かったというのに。ああ、半時間前にはそれらの夢想はみななんと偉大で明晰で論理的に見えたことだろう。それらすべてから三段論法に三段論法を重ねて悪の非存在を演繹した、自分のやったあの演繹はなんと議論の余地無きものだったことか。——曰く、悪は善のより低次の様態であり、誤謬も変化も有り得ぬあの普く満ちる偉大にして一なる知性の、無数の所産の一つでしかないのだが、あまりにも見慣れぬ難解な形態であるため、外見上は苦い果実と、その果実を産み出した完全なる根とを繋ぐ幹を見るすべを学んだ哲学者以外の、すべての心に嫌悪の情を喚起するのである、と。自分はその幹を——純粋で究極的な知性と、堕落した臆病なオレステスの忌まわしい愛撫との連関を見ることができただろうか。そんな愛撫は過去、現在、未来において、善のいかなる鉱脈も混じらぬ純然たる悪ではないか……。

 本当だ——そうした一切の渦中にあっても自分は精神的純潔を保てるかも知れない。卑しい身体を犠牲にして、その自己犠牲によって魂を高貴ならしめるかも知れない……けれどもそうしたことは恐れや苦悩、またその悪を増大させるだろうし——自分にとっては、少なくとも最も実在的な悪は、説明して取り除かれるものではない——それなのに神々はそんなことを要求するのか。その点で神々は正しいのか、慈悲深いのか。最後の揺るぎない信者を攻め苛むなんて神々にふさわしいのか。神々がそんなことをお望みになるだろうか。それは何かもっと、神々がそこからの流出にすぎないような、神々がその力の道具か傀儡にすぎないような高次の力が、神々に要求したことではないのか。——そしてその高次の力も何かさらに高次な力——名状し難い絶対的な運命から要求を課されているのであって、オレステスも自分も、全天地は運命の犠牲でしかなく、逃れようのない竜巻の中で、救いも希望もなく各々が遭うべきものへと引き摺られているのではないだろうか。——そして自分はこの運命に出遭ってしまった。こんな考えは耐え難い。目眩がする。いや、そんなことになるものか。反逆するのだ。プロメテウスのように運命に挑み、最悪の運命にでも立ち向かうのだ。手紙を取り戻そうと、ヒュパティアはさっと立ち上がった……が、ミリアムは立ち去っていた。そして彼女は床に伏して苦い涙にくれた。

 だが、ミリアム婆が手紙を携えてユダヤ人街の煤けた家へと帰路を急いでいるのを見られたとしても、実際のところヒュパティアの心の平和は回復しなかったに違いない。手紙はその家で開封され、それから、どんな目にも変化を見分けられないような驚くべき技術で再び封印されたのである。またついにオレステス邸の夏部屋で、傑出した政治家がラファエル・アベン・エズラと交わした会話を耳にしようものなら、彼女は慰安を得るどころではなかったはずだ。オレステスとラファエルは二台の寝椅子に向き合って横になり、賽ころを一投げ二投げしながら、ヒュパティアの返答が遅れている気がかりな時間をつぶしていた。
「また箱だ。君の中には悪魔がいるな、ラファエル」
「いつもそうみたいですよ」と金貨を浚いながらラファエルは答えた。
「あの老魔女はいつ戻るだろう」
「閣下の手紙とヒュパティアの返事を読み終えたら、ですよ」
「読むって」
「もちろんですよ。何の言づてか知らないまま運ぶほどミリアムが馬鹿だなんてお思いじゃないでしょうね。怒らないでください。ミリアムは喋りませんよ。事がうまく行くのを見るためなら、当人は目だなんて呼んでるあの二つの陰気な光の片方をよこしますよ」
「なぜだ」
「手紙が来ればお分かりになりますよ。あ、来ましたよ。回廊で足音がする。あれが来る前に一つ賭けましょう。異教に改宗なさるようにと彼女は要求しますね。一対二でお出しします」
「で、何を賭ける。黒人少年かね」
「何でもお好きなものを」
「受けた。入れ、奴隷たち」

 そしてヒュポコリスマがふくれっ面で入って来た。
「ユダヤの鬼婆が外に手紙を持ってるんですけど、ずうずうしいことに、僕に中に持って入らせるわけにゃいかんなんて言いやがんです」
「だったら婆さんに持って来させろ。早くしろ」
「僕は何のためにここにいるんだか。僕の知っちゃいけない秘密があるんなら」と甘やかされた若者はぶつぶつ言った。
「おまえの白いわき腹の周りに青い細帯が欲しいってか、猿め」とオレステスは訊いた。「何しろ細帯が欲しいなら、外にはもう河馬の革が吊るしてあるしな」
「二、三時間ばかりそいつをここに跪かせて賽ころ板にしてやりましょう」とラファエルは言った。「アルメニアでよく娘たちを賽ころ板にしておられたみたいに」
「ああ、あれを思い出したのか——蛮人のお父ちゃんたちがどんな不平を言ってたかも覚えてるかい。一人二人磔にしてやるまでのことだったけど、だろ。あれが何か人生ってものだ。私はああいう、誰も何も訊いて来ない道から外れた所が好きなんだよ。だけどここではニトリアの修道士たちの間で暮らしたって同じようなものだ。カニディアが来たぞ。ああ、答えは。渡して渡して、我が仲立ちの女王さま」

 オレステスは返事を読み——色を失った。
「僕の勝ち、ですかね」
「この部屋から出ていけ、奴隷ども。立ち聞きするな」
「では僕は勝ち?」

 オレステスは手紙を投げ渡し、ラファエルは読んだ——
「不死なる神々は崇拝を分け合うことを良しとされません。ですから神々の女予言者の助言を得ようという方が覚えておかれるべきは、神々の失われた名誉が回復されぬかぎり神々は女予言者に啓示を賜りはすまい、ということにございます。アフリカの主たらんと切望される方が憎むべき十字架をあえて踏みつけ、本来神々のために建立されたカエサレウムをその礼拝のために奪還されるならば——御眼識と理性により既にお覚えの軽蔑、蛮人の新奇な迷信に対する軽蔑を、己の唇と行いとによって声高く公言なさるならば、偉大なる大願のためにともに苦役し、立ち向かい、死ぬのが名誉になる者だと示されることになりましょう。ですが、そうなさらぬうちは——」

 そうして手紙は終っていた。
「どうしたものだろう」
「言葉どおりにして彼女を得ることですね」
「とんでもない。破門されてしまう。そうしたら——そうしたら——私の魂はどうなるんだ」
「いずれにせよ魂は、どうなるというのです、至高なる我が閣下」とそっけなくラファエルは答えた。
「つまり——君ら呪われたユダヤ人が、君ら以外の者に何が降りかかると思っているのかは知っているよ。だが、世間が何て言う。私が背教者! キュリロスと大衆をものともせず! 言っておくが、そんなことはせんぞ」
「誰も閣下に背教しろなんて言ってませんよ」
「どうして。何。今、何て言った」
「僕は、約束しなさいと言ったんです。何も初めてじゃないでしょう、結婚前の約束と後の行いが違うなんてことは」
「いや、できん——つまり、約束する気なんて無い。思うにさて、これは何か君たちユダヤ人の悪だくみだな。君たちの憎むあのキリスト教徒に私を対抗させる気だろう」
「請け合って僕は、全人類への軽蔑が深すぎて憎む気にもなりません。このご縁組を提案するにあたって僕がどんなに無私だったか、決してお分かりにはなりますまい。実際お話すると自慢になりますし。ですが正味の話、あの馬鹿な小娘を説き伏せるには、ちょっとは犠牲を払わなければ。あの人の聡明で大胆な知性、あれがみな助けになれば、閣下はすぐにもローマ人や、ビサンチンやゴート族に比肩することになるでしょう。それに美しさといったら——どうして。手首の内側の、ちょうど可愛らしい小作りな手のところにある小さな凹み、あれはアレクサンドリアにある他の血と肉すべてに値しますよ」
「ゼウスにかけて、いや、まったく。ずいぶんあの人に感服しているんだね。君自身が彼女に惚れてるんじゃないかと怪しむよ。あの人を娶ったらどうだね。君を私の首相にしよう。そうしたら我々は彼女の夢想に煩わされずに彼女の機知を使えるだろ。十二神に誓って、君が彼女と結婚して僕を助けてくれるのなら、君を君の好きなものにしてやろう」

 ラファエルは立ち上がり、地につきそうなほど頭を下げた。
「いとやんごとなきご高能に圧倒されております。ですが、請合って僕は自分以外のどんな人の利益にも気を留めたことはないんですよ。こんな歳で我が身を他人の利益に捧げるだなんて、僕に期待することはできません。たとえ閣下の利益であっても、です」
「あけすけだね」
「まさに然り。それに加えて、誰を娶るにしろその人は実質的にも理論的にも同様に、僕固有の私的所有物となるわけです。……お分かりですね」
「またまたあけすけだ」
「まさにね。で、まさかヒュパティアは僕との結婚を選ぶまいという第三の議論は差し控えるとしてですね、手短に言わせていただけば、統治者たる閣下より臣下の僕のほうが賢明で立派な妻を持っているだなんて、世間に言わせるのは好ましくないでしょう。ことにその妻が先に、統治者の敬意を尽した申し出を断わったとあっては」
「まったくだな。それにあの女は本気で私を拒絶したんだ。それを悔やませてやる。お願いするだなんて私は本当に馬鹿だった。やりたいことを無理強いできんのなら、衛兵を持っているのが何の役に立つ。公正な手だてでやれんのなら、卑劣な手だてでやるまでだ。今すぐあの女に衛兵をさし向けてやる」
「この上なく輝かしき閣下——成功しますまい。あの女の決心というものをご存じないですね。鞭も灼熱した金鋏も生きた彼女を動揺させませんし、死んだ彼女は閣下にはまったく使い道が無いでしょう。キュリロスにとっては大いに使いでがありますけどね」
「どんなふうに」
「閣下に対抗する筋書き全篇の手掛かりができて、キュリロスは大喜びするでしょう。ヒュパティアは至聖のカトリックの、使徒の信仰を守って処女殉教者として死んだのだと言いふらし、彼女の墓に奇蹟を行わせ、力がもとになって閣下に災いが降りかかるのを頼みにして閣下の官邸を引くというわけです」
「何にせよキュリロスの耳には入る。これがもう一つの難局で、ここに陥らせたのは君だぞ、陰謀を企む悪党め。あの小娘は私が求婚したのを拒んで我が身の名誉としたんだと、アレクサンドリア中に吹聴するだろう」
「その手のことをやるにはあの人は賢すぎますよ。そんなことをすれば閣下に提示した条件をキリスト教徒大衆に告知されると弁えるだけの分別はあります。彼女は肉体という重荷をまったく軽蔑してますけど、あの麗しい重荷をキリスト教修道士にばらばらに引き裂かせて軽くしようなんて気は無いですし。何にしても、気鬱なときに本人が自分で言っているとおり実にありそうな最期ではありますが」
「で、私にどうしろと」
「何もしないだけです。彼女から予言者的精神を追い払わせましょう。一日、二日でできますよ。それで——彼女が自分の値段を下げなかったら、僕は人間の本性を何も分かってないということです。確かに、彼女には不可言性やら不通性やら、ここアレクサンドリアで我々が真似事をしている第七天の月光の残りがあるにしても、王座はあまりにも魅力的で、巫女ヒュパティアでも拒めません。良いものはそのままにというのはうまい原則ですが、悪いままにしておくのはもっと良い。さてでは、お別れする前にもう一つ賭けを。今度は三対一です。どのみち何もなさいますな。そうすれば一月もしないうちにヒュパティアは自分から閣下に言って寄越しますよ。賭けは、カフカスの驢馬でどうです。いいでしょう。そうしましょう」
「なるほど、途方に暮れたあわれな都督なんて悪魔にとっては、君は素敵至極な相談相手だね。君みたいに個人的な身代があったら、金を遣えて、その金にものを言わせただろうになあ」
「それこそが成功した政府の真の方策です。あなた様の奴隷はおいとまを申します。賭けを忘れないでください。明日は僕と食事でしたね」

 そしてラファエルは一礼して退出した。

 都督の戸口を出たところで彼は、道の反対側にミリアムがいて、明らかに自分を見張っていたのを目にした。彼を認めるやミリアムは、彼を気にするそぶりも見せずに自分のいる側でじっと待ち、ラファエルが角を曲がってしまってから道を横切って行って必死に彼の腕を捉えた。
「あの馬鹿、やってのけるだろうかね」
「誰が何をやるんですって」
「何を言ってるか分かってるだろ。ミリアム婆が、中身を知ろうともせんで手紙を運ぶなんて思うかね。背教するだろうか。言うておくれ。墓石みたいに秘密は守るよ」
「あの馬鹿はですね、心の片隅に虫喰いだらけの古ぼけた良心のぼろぎれを見つけて、それで躊躇したんです」
「呪われろ、臆病者が。私が敷いたあの筋書きもだ! 年内にはキリスト教徒の犬畜生をアフリカから一掃するつもりだったのに。あの男は何を恐れとるのかの」
「地獄の業火を」
「どうして。どのみちあいつは地獄行きだろうが、呪われた異教徒め」
「そう仄めかしたのですがね、できるだけ気を遣って。ですが世の他の人々と同じで、我が道を辿って彼処に辿りつくのがお好きでして」
「臆病者めが。それじゃあ誰にしようかね。おお、ペラギアの総身にヒュパティアの小指ほども狡猾さがあれば。あの子とあの子のゴート族をカエサルの玉座に据えたものを。だが——」
「ですがペラギアには五感も、五感を用いるだけの機知もありますよね」
「そういうことであの子を笑いなさるな、可愛いお方。何しろ私はあの子が楽しいんだ。あの子が自分の生業を何から何まで弁えて、エヴァの真の娘らしく生業を楽しんどる様子を見ると、私の古びた血ですら温まるよ」
「実際のところペラギアは一番成功したお弟子ですよね、お母さん。あの子を誇りになさって良いでしょう」
 老魔女はしばらくの間、一人くっくと笑った。そしてそれから急にラファエルの方に向き直った——
「ここをご覧。あんたに贈り物がある」そして彼女は見事な指輪を引き出した。
「どうして、お母さん。いつも僕に贈り物をくださいますが。この毒塗りの短剣を送って来られたのはほんの一月前でしたよ」
「なんで贈らん——なんで。どうしてユダヤ人がユダヤ人に贈ってはならんね。婆の指輪を受け取っておくれ」
「なんて見事な蛋白石なんだ」
「ああ、確かに蛋白石だ。またそれには、言うに言われぬ名声がある。まさにソロモンの指輪みたいなものでね。お取りと言うとるに。これを身につけた者は誰でも、火も剣も毒も、それに女の目も恐れんでいい」
「ご自身の目も含めて、ですかな」
「お取りと言うとるんだ」とミリアムはラファエルの手を捉え、指輪を彼の指に押し込んだ。「ほれ。もうあんたは安全だよ。さて、もう一回私を母と呼んどくれ。それが好きなんだよ。なんでか分からんが好いの。それで——ラファエル・アベン・エズラ——私を笑いなさるな。よく言うとるみたいに魔女だの鬼婆だのと呼びなさるな。誰が言うても私は気にせん。慣れっこだ。たが、あんたが言うといつも刺しとうてたまらんのよ。だからあんたに短剣をあげたんだ。始終その剣を身につけていたんだが、いつかこれを使う気になりゃせんかと恐くなってね。あんたがどんなに男前かってそんな考えが過ぎったときとか、あんたが死んだとしたらあんたの魂は天国で、異教徒どもがみんな下方で焼かれ炙られるのを眺めながらアブラハムの懐裏にあってえらく幸福だし、そのときにはどんなに平穏だろうかとか、ふとそんなことを考えたときにはね。笑いなさるなと言うのに。それに邪魔立てもしなさるな。私はいつか、あんたを皇帝の首相にしよう。やろうと思えばやれるんだ」
「とんでもない」とラファエルは笑って言った。
「笑うてはいかん。夕べあんたの生誕天宮図を占ったんだが、あんたにゃ笑う理由なんぞ無いのが分かってる。大いなる危険と深い誘惑があんたに迫っているんだ。この嵐を乗り切れば、その気があれば宮廷高官、首相、皇帝になれる。そうならなけりゃ——四大天使に誓って、あんたはそうせにゃ」

 そして老婆は、ラファエルをほとほと困惑させたまま、横町に消えた。
「ああモーゼよ、預言者たちよ。あの老婦人は僕と結婚する気か。我が名を冠するこのやたら怠惰で利己的な人物、ここにそんな甘美な恋心をかきたてるものが何か有り得るだろうか。さてラファエル・アベン・エズラ、汝はマスチフ犬ブランの他にこの世にもう一人友を、してまたもう一つの厄介事を持っているぞ——友人たちがいつも情愛だの仕事だの、その他いろんな見返りを当然支払われるべきものと期待しているのを見ているのに。あの老婦人は人攫いをやって争いにでもなって、その手助けに僕の後楯が欲しいんだろうか。……ここから家まで灼熱の太陽の四分の三哩……次の宿駅で一頭立て二輪馬車か輿か何か雇わないと……玉葱を喰ってる車夫ともどもな……そしてもちろん次の半哩には宿駅なんてものはない。おお、プロメテウスにありし神なる天空よ、汝ら翼も速き風の息吹よ(いくらかでも吹いてくれたらなあ)、いつになったら全部終るんだ。もう三十三年間、ごろつきどもと愚か者たちのこのバベルを生き抜いてきた。痛風や腹くだしの助けにすらならんだろうが、お粗末ながらの健康のおかげでたぶん、もう三十三年生きそうだ……。僕は何も知らない。何も心配しない。そして何も期待しない。結局のところ墓場の向こう側もこちらと同様くだらないなんてことになるのかどうか、ほんのささやかな知恵をすっかり解放して、何か本当に見るに値するものを見、本当にやる値打ちのあることをやって力を試すために——実際、我が身に小穴を開ける労は取れない。……いつになったら僕はすべて終わってアブラハムの胸に——あるいは、女の胸でないとしたら、誰であれ誰かの胸に入るんだろう」

最終更新日: 2001年6月9日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com