第9章 はぜる弓

 ピラモンの話やヒュパティアの伝言のことを、キュリロスは静かに微笑んで聞いた。それから、何が起きたのか公言はするな、その件は時間を取って考えるから夕方ここに戻って指示を受けよと命じ、若者を町での午後の仕事に向わせた。それでピラモンは仲間と連れ立って、腐敗と貧困、強いられた怠惰と生まれながらの罪に満ちたおぞましい路地を進んだ。何もかもおそろしく現実的で実際的だったが、ピラモンにはぼんやりとした夢のようにしか見えなかった。彼の目には一つの顔が輝いていた。耳には銀の鈴を振るような声が響いていた。……「修道士で、もっと優れたものを何も知らないの」……。そのとおりだ。どうしてより優れたものを知り得よう。この偉大なる新世界において、今まで人生を過してきたあんな岩のすき間において、知るべきものがいかに多いかどうして語れただろうか。一方のことは既に聞いた。ものに両面があるのだとしたら、どうだろう。まっとうなのは——つまり、両方を聞いてそれから判断しようというのは、適正で公正で慎重ではないか。

 ヒュパティアの招きをどうするべきか決めてやらないうちに、キュリロスは、この若者を実際的な慈善労役に送り出したわけだが、これはおそらく、若者のためには賢明なことではなかった。若い修道僧を苦しめている新しい思想をキュリロスは考えに入れなかったのだが、たぶん知っていたとしても彼には理解できない思想だった。彼は、巨大な修道施設の厳しい教条的訓練のもとで育った。ニトリアの硝石採掘場の真ん中に隣接して作られた施設で、そこでは何千もの人々が自ら求めて貧しく飢えながら、巨大な製パン場や染色工房、煉瓦工場、仕立屋、木工所で精を出し、自らは何も必要としないので、労働の収益を自分たちではなく義捐金や教会や病院のために遣っていた。宗教的訓練の場であるとともに実際的な工業生産の場でもある世界で教育を受け、また大都市に近いこともあって、修道士たちは彼らの卑しむあの世界に馴染んでいた。キュリロスは叔父のテオフィロスという、気性の激しい野心家の陰謀に少年時代から関わり、叔父のあとを継いで何の疑問もなくアレクサンドリアの大司教職に就き、火のような活力と明晰な実践的知性とを、教会の理想のために躊躇うことなく、また必要とあれば情け容赦なく、意のままに揮った。このような男がどうして、ラウラの洞窟の静かな影からいきなり、光とどよめきにみちた世界の真昼に引きずり出された哀れな二十の少年に共感できただろう。その少年もまた修道院育ちだった。けれども、忙しなく狂信的なニトリアの雰囲気の中で、休息も純真さも人間的情愛も無く、心身の全神経を生涯に渡って不自然に張りつめ続けるというのは、劣らず勤勉だが辺鄙で貧しい共住修道士の団体の体制とはまったく対蹠的だった。そのような団体は辺鄙な山間にも点在していて、ヌビアの砂漠の奥地までずっと続いていた。そうした修道院の一つでピラモンは、立派な人から父のような気遣いだけでなく母のような情愛も受けてきたのであり、今は穏やかな励ましの声や優しい目配せに焦がれ、寂しさに心を痛めていた。……そしてヒュパティアの声が、音楽のように耳について離れなかった。かの高雅な神がかり、かくも優しく穏やかな威厳——多衆に対する憐れみの調子は——あれは軽蔑と呼ぶには美しすぎた。選ばれた魂のあの見事な幻影……大衆とは違う……「僕も大衆みたいなものか」と、うめきをあげる熱病患者の重さによろめきながら、ピラモンは内心考えた。「これよりも向いてる仕事はないんだろうか。こんなことは、埠頭の荷運人足の誰だってうまくやるよ。こんな労役で何か無駄にしてないか。僕には知性も眼識も理性も無いとでも。僕には彼女の言うことが分かった。——なんで自分の能力を磨いちゃ駄目なんだ。なんで僕だけ知識から閉め出されるんだ。異教だけじゃない、キリスト教的グノーシスだってある。クレメンスさまに許されたものなら」——彼はあやうくオリゲネスに語りかけたが、異端のきわではっと立ち止まった。「僕にはまったく正当だ。知識を磨こうとするのは、それが可能だという証拠じゃないか。そう、僕の領分は街路ではなく研究室なんだ」

 すると労役仲間たちは——内心否定できなかったのだが——だんだん立派に見えなくなってきた。この老僧の不平や悪口をなるべく気にしないようにしよう、目の前にあるこの事実を。がさつで、荒っぽくて、騒々しい連中……なんて彼女と違うんだろう。彼らの話ときたらただのうわさ話みたいで——厳しく判断すれば大半は悪口だ。あの男の密かな野心だの、あの女の高慢な様子だの。それに、前の日曜に聖餐式のために残った人や、説教が終ると出て行った人。 大方は残らなかったがよくも出て行けたものだとか、少しは残ったがよくも残れたものだとか。……きりのない憶測や冷笑や不平……至福の光景や永遠の栄光について、彼らが何を気遣っているというのか。大司教から都督にいたるまであらゆる人や物を、彼らが吟味する際の試金石が、キリスト教の大義を進めるかどうかだと思えようか。——肝要なのは彼ら自身の大義や威信なのだと、ピラモンは早くも気づいていた。そしてあわれな少年は、彼らに影響されて嘘を嗅ぎつける力を呼び覚まされ、彼らの決まり文句、労役への愛や現世の屈辱に応ずる先の報いを語る謙譲な言葉に、奥深く秘められた高慢を見てとったようだ。つまり、彼らは自分は無謬だと確信して、尊者であろうと派閥が違えば取るに足らぬとして、あらゆる人をいらいらと見下していたのである。彼らはアウグスティヌスの西方化傾向を軽蔑をもって語り、クリュソストモスを卑しいことこの上ない不敬な宗派分立論者だと呪って憚らなかった。ピラモンにはよく分からないが、それなりに正しいということだった。けれども、過去や差し迫った戦争や荒廃を、異端者や異教徒に対する天の裁きだとして、殺戮や破壊を憐れみもせずに語っており——彼らの言葉をピラモンが拾い聞きしたところでは、皇帝とアフリカ総督との恐ろしい権力闘争が間に差し迫っている件については——まるで、彼らの唯一の関心事——キュリロスとその護衛たる自分たちがアレクサンドリアで力を得るのか失うのか、それ以外は問題ではないかのように論じていた。そしてついにオレステスやその顧問ヒュパティアが問題になると、口々に神の呪咀を丸出しにして、両人が永遠に苛まれることを期待して自らの慰めとした。この時ピラモンはふと我知らず自問した——これが福音のしもべか——これがキリストの聖霊の結実なのかと。——そして魂の深い奥底に囁きが震え渡った——「ここに福音があるか。キリストの聖霊があるか。その結実はこんなものではないだろう?」

 その囁きは遠く低く微かで、何里も地下で揺れる地震のようなものだった。けれども、地震の振動のように、たちまち一切の信仰や希望や記憶を軋ませ、毛筋ほどだがもとの場所からずらした。……たった毛筋一本の幅にすぎない。だがそれで十分だった。内側も外側もすっかり様変わりして、あらゆる結びつきにひびが入った。それが粉々に崩れたらどうだろう。そう考えると頭がくらくらした。彼は自分は何者なのかを疑った。天の光そのものが色合いを変えたのだ。拠って立っていた堅固な大地は、結局は確かな真実ではなく脆い殻のようなもので、それが覆っていたのは——何なのか。

 悪夢は消え、彼はもう一度息をついた。なんて変な夢。日差しと重労働で目眩を起こしたに違いない。みんな忘れるんだ。

 労役で疲労し、思考にはさらに疲れ果てて戻ったその夕方、彼はヒュパティアと話すことを許されるのを切望しながら恐れてもいた。話すだけの力は無いとキュリロスが思ってくれればいいのにと一瞬望みもしたが、次の瞬間には、信仰と希望をとまでは言わぬまでも、誇りと勇気のすべてをかけて自分を励ました。恐ろしい女妖術師とまさに顔を合わせて、面と向って罵ってやれたら。でも、彼女はあんなにも美しく、気高く見えた。穏やかに警告したり同情したり、助言したり懇願したりする以外の調子で彼女と話せるだろうか。彼女を改宗させて——救えないか。素晴らしい考えだ。あんな魂を真の大義のために勝ち取るなんて。使命の最初の成果として、異教の闘士を見せられるなんて。そのためだけに生き、そのために死ぬ価値がある。

 ピラモンが入って行くと、大司教館はいつもにましてひどくざわついていた。修道士や僧侶や挺身団や、貧富ともども市民たちの一群が中庭を行き来して、怒った調子で話し込んでいる。ニトリアから来たばかりの修道士の大集団もいた。髪もひげも伸び放題、あらゆる宗派の狂信者が帯びる独特の顔つきをしている。猛々しいくせに卑屈で、人目を気にしながら慎みがなく、愚かなくせにずる賢く、絶え間無い断食と自己懲罰のせいで荒んだ卑しげな姿。頭からつま先まで襤褸を纏って取り澄まし、荒々しい大げさな身振りをしては、不用意な言葉で、もっと穏和な仲間たちに、教会に加えられた何がしかの侮辱に仕返ししようと呼びかけていた。

「何ごとですか」とピラモンは、恰幅のよい物静かな市民に尋ねた。彼はじつに複雑な表情で、大司教館の窓を見上げて立っていた。
「私に訊きなさんな、私は何もできないんだ。どうして聖下はお出ましになって彼らに話されんのだろう。祝福された乙女よ、神の母よ、みんな無事に済みますように」
「臆病者」と一人の修道士が耳もとで怒鳴った。「こいつら小商人は、自分の店の商品台さえ無事ならいいんだ。一日の顧客を失うくらいなら、教会だって異教徒どもに掠奪させるだろう」
「そんなやつは要らん」と別の声が叫んだ。「ディオスクーロスとその兄弟を始末したんだ、オレステスも始末できる。奴の寄越す答えが何だ。悪魔には報いを受けさせろ」
「二時間前には戻っているはずなのに。あいつら今頃殺されてるな」
「助祭長に手出しする勇気はやつにはなかろう」
「やつは何かしでかす気だぞ。キュリロスさまは、彼らを遣ってはいけなかったんだ。狼どもの間に仔羊たちを放すようなものだ。ユダヤ人どもが逃げ失せたのを、都督に知らせる必要が何かあったか。やつは本当にすぐに自分で気づいただろうよ、次に借金しようとしたときにな」
「すみません、これはいったいどういうことです」と、中庭に現われたペテロ読師にピラモンは尋ねたのだが、ペテロはアスポデロスの野をよぎるアガメムノンの魂のように大股で歩いており、どうやら怒りで我を忘れているようだった。
「おお、ここにいたのか。明日にしろよ、阿呆な若造め。大司教さまはお話しになれない。できるわけないだろ。あまりにも注目を引きすぎる連中がいるようだな。ああ、行けよ。まだ自惚れていないんなら、明日行って自惚れるがいい。得意になったやつが、万事片付く前に評判を落さんものか、見ものだよ」そしてペテロは大股に去ろうとしたが、癇癪の危険をおしてピラモンは彼を止めた。
「聖下がお目にかかるように仰ったんです、このまえ——」
ペテロは激昂してピラモンに向き直った。「馬鹿! こんなときに、おまえの奇天烈な妄想を聖下に押しつける気か」
「聖下が、お目にかかるように命じられたのです」と、まとに兵士然とした修道士の規律でもってピラモンは言った。「ですから誰が何と言おうと、聖下にお目にかかります。あなたは、聖下の祝福や助言から僕を遠ざけておきたいんだ。僕は内心そう信じています」

 ペテロはじつに邪悪な表情でしばらくピラモンを見ていたが、それから、若者が驚いたことには、若者の顔を力一杯殴っておいて、大声で助けを呼んだのだった。

 一週間前にラウラでパンボに打たれたのであれば、ピラモンは耐えただろう。だがあの男から、失望と嫌悪の思いがけない上塗りの一撃が来たとあっては我慢ならなかった。たちまちペテロの長い足は歩道に大の字に広がり、彼はニトリアの修道士すべてに向って牡牛のように喚いた。

 ペテロが立ち上がるより先に、十もの痩せて日焼けした腕がピラモンの喉にかかった。
「捕まえろ、おさえとけ」と彼は半泣きだった。「裏切り者だ、異端者だ。やつは異教徒と付き合っているんだ」
「やってしまえ!」「放り出せ!」「大司教さまに突き出せ!」ピラモンがふりほどいている間に、ペテロはまた告発し始めた。
「よきカトリック全員が証人だ。こやつは神の家の庭で聖職者を殴った。それもど真ん中で。おおエルサレムよ。それにこやつは、今朝はヒュパティアの講義室にいたんだぞ」

 敬虔な畏れの呻きがあがった。ピラモンは窮地に立たされた。
「聖下が、大司教さまに派遣されたのです」
「白状したな、白状したな。敬虔な大司教さまをたぶらかして派遣させたんだ。あの女を改宗させるような振りをしてな。それに今だって、キュリロスさまの聖なる居室に入り込もうとしてるんだぞ。明日あの女魔術師の家であの女に会えるかと、ただ肉欲に身を焦がしてな」
「醜聞だ」「聖所の面汚し!」あわれな若者に向って押し寄せてきた。

 ピラモンはすっかり血が昇った。こうした場合の例のとおり、暴徒の大半は慎重に後退って、我が身の安全は言うまでもなく、自らの正統的信仰の声望に目配りして、ピラモンを情け深い修道士たちのもとに残したのだった。ピラモンは武器を求めて見回した。が、何も無い。熊を追う猟犬のように、取り囲んだ修道士たちが吠えかかってきた。そのうちの誰であれ一対一ならひけを取らないだろうが、彼らの隆々とした腕や決然とした顔は、そんな目算に逆らって、あがいても無駄だと警告していた。
「この中庭から無事に立ち去らせてくれ。僕が異端者かどうかは神がご存じだ、僕のことは神に委ねる。聖なる大司教さまは、この非道をお知りになるはずだ。邪魔はしない。呼びたけりゃ、異端者とでも異教徒とでも呼ぶがいいさ。おまえらを恥じ入らせに戻れと、キュリロスご本人が僕に迎えを遣してくださらないうちに、僕がこの敷居をまたいだらな」

 ピラモンは向きを変え、全身の血が頬に集まるような嘲りの叫びのただ中を、門に向うしかなかった。丸天井の通廊を進む間に、二度うしろから襲われかけたが、迫害者たちのうちでもわりと冷静な者がそれを阻止した。しかしピラモンのように若くて頭に血が昇っていては、一言の捨て台詞もなく去ることはできず、彼は門口でふりむいた。
「やあ! 自分じゃ主の弟子だなんて言っても、それよりも悪魔みたいだな。昼も夜も墓に籠って、石で切り刻み合っては大騒ぎ——」

 たちまち彼らは襲いかかってきたが、ピラモンにとって幸運なことには、恐怖で虚ろな顔をして道から駆け入ってきた聖職者一党にも行き当たったのである。
「あいつ、拒絶したぞ!」と先頭の者が叫んだ。「神の教会に反対すると宣言したぞ」
「おお、友よ」と助祭長は息を詰まらせた。「鳥刺しの罠を逃れる鳥みたいに逃げてきたんだ。あの僭主は我らを官邸の入口に二時間も待たせておいたあげく、権標を携えた警士を送りつけてきてな、暴民や盗賊に向ける伝言はこれだけだなんて言って」
「大司教さまのもとへ戻れ」と群衆全体がまた流れ入ったのでピラモンは道に——世界に、一人とり残された。

 さて、どこへ?

 こう自問するまでに、憤怒にかられて一町かそこら大股に進んでいた。そして自問したときには、答える気分ではないことに気づいた。波止場から、まったく真っ暗な寄る辺無い海へと吹き払われて、彼は漂っていた。彼はただ、怒りに目を塞がれていた。

 だんだんと一つの考えが固まり、灯台のように嵐を貫いて瞬き始めた。……ヒュパティアに会おう、そして彼女を改宗させるのだ。これについては大司教さまの許可を得ている。これは正しいはずだ。これで自分は正当化されて——戻るんだ。たぶんどんな皇帝よりも栄光ある勝利の中で、異教の女王という一級の捕虜に聖霊の足かせをして。そうだ、まだこれがある。そのために生きるのだ。

 宵の光の薄れゆく中、この道を上りあの道を下ってさまよううちに、激情は徐々に醒めていったが、とうとう完全に道に迷った。何でもないさ。少なくとも明日には、あの講義室は見つかるだろう。やっと見知った大通りに出た。遠くに見えるのは太陽門だったか。彼はぼんやりしたままぶらぶらとそこを下り、気づくとついには、三日前に小柄な荷運人足に連れられて来た広い遊歩道にいたのだった。ということはムーセイオンや、彼女の家の近くだ。運命が知らないうちに、一大事業の場に導いてくれたのだ。幸先がいい。今すぐそこに行きたかった。他所でも良いが、彼女の戸口の階段で寝てもいい。こんな遅い時間だが、ことによると彼女が出入りするのを垣間見られるかも知れない。彼女を見馴れておくのはいい。明日、あの女魔術師の目の前で少しはあがらないで済むだろう。さらに言えばじつのところ、ラウラでの修練によって打ち砕かれたというより倒れて眠り込んでいた自立や我意が野放しになってきて、正しかろうと間違っていようとただ自分がそう決めたからそうするという、幼い駄々っ子の頃以来感じたことのなかった神秘的な喜びがあったのだ。このような瞬間は、自由意志を持つ者すべてに訪れる。あわれなピラモンのようにぬくぬくと育ち、これに直面するすべを知らずにいたのでない人々は幸いである。けれども彼は、というより彼の指導者はいつかは学ぶはずである。服従を厭わぬ決然とした克己に至る真の道は、隷属ではなく自由のうちにあるということを。

 どれがヒュパティアの家なのかはっきりしなかったが、ムーセイオンの扉は忘れられなかった。それで彼は庭園の壁の元に座り、夜の涼しさと、聖らかな静けさと、こころを鎮める芳香で空気を満たす何千もの異国の花々の豊かな香りに慰められた。彼はそこに座って、一つのものを見ようと眺めに眺めたが、しかし無駄だった。どれが彼女の家なのだ。どれが彼女の部屋の窓だろう。通りに面しているのだろうか。女部屋のことなど夢想してどうする。……けれども、窓が一つ開いていて、中では灯火が輝いている——見上げずにはいられなかった。夢みて——望まずにはいられなかった。その部屋の明るいしつらいをもっとよく見ようと、一間ばかり動きさえした。高く見上げるといくつもの書棚や——壁の絵まで見えた。あの声は何だろう。そう、女の声が——朗々と韻律を詠じているのが——頭上の木の葉擦れさえない夜の深いしじまの中で、はっきりと聞き分けられた。彼は好奇心に呪縛されて立ちつくした。

 急に声が止んで女の姿が窓に近づき、身じろぎもせずに頭上にまたたく星の世界を見つめ、そして栄光と、静けさと、豊かな香りを吸い込んだように見えた。……彼女だろうか。ピラモンの全身の鼓動が狂おしく脈打った……そうかも知れない。彼女は何をしているのだろう。顔立ちは見分けられなかったが、東の月の煌々とした光が、輝く髪の金の流れの間にある柳眉を照らし出した。胸のまえに握りしめた白い手のほかは、髪の流れにすっかり覆われている。……何を祈っているのだろう。これは彼女の夜中の魔術なのか。……

 そうしてピラモンの心臓はますます脈打ち、この騒々しい鼓動が彼女に聞こえるに違いないと思うほどだったが——彼女はなおも直立不動で空を見つめており、まるで黄金象牙像、すべて金と象牙でできた見事な彫像のようだった。彼女の背後の明るい部屋の周りには、書物や絵画、未知の学問と美の全世界があり……そのすべての女司祭ヒュパティアが、彼女に学んで知者となれと招いていた。誘惑だ。彼はそれから逃げようとした——馬鹿だった——結局彼女ではなかったかも知れない。

 彼は急に少し身動きした。彼女は見下ろして彼を目にとめ、そして鎧戸を閉めて就寝するべく姿を消した。誘惑は今や消え、呪文を破った自分をなかば呪いながら、もう一度現われないかと座って待ったが無駄だった。それきり部屋は暗く静まり、疲れきったピラモンは間もなく、亜熱帯の香り高い夜のもと、気づくと静かな夢の中でラウラへ戻ろうとさまよっていた。

最終更新日: 2002年10月20日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com