第27章 放蕩息子の帰還

 翌朝十時頃、眠ることもできない悲しみに疲れ果てたヒュパティアが、最終講義のために考えをまとめようとしていると、シュネシオスの使いが下で待っている、と、お気に入りの婢女が告げた。 シュネシオスの使いが? 希望の光が心に射した。確かにあの人からなら、何か慰めや助言が届くかもしれない。ああ、どれほどの痛手か分かってさえもらえたら。
「お手紙をいただいて来なさい」
「お嬢さま以外は誰にも手紙を渡さないと仰るのです。それに私、思うんですけど」——と娘は付け加えた。実のところはすでに、そう思うに足る根拠を懐にしていたのだが——「お会いになるのがお嬢さまのためになると思います」

 ヒュパティアはいらいらと首を横に振った。
「お名前は明かして下さいませんでしたけど、お嬢さまをよくご存知のようでしたよ。でも黒瑪瑙のことを思い出していただくようにと仰いました。——何のことだかあたしは分かりませんけど——黒瑪瑙と、お嬢さまがそれを擦ったときに現われる霊のことを、って」

 ヒュパティアは死人のように青ざめた。 ピラモンがまた? 彼女は護符を探った——が、無くなっていた。昨晩ミリアムの部屋で無くしたに違いない。今や彼女は、老婆の企みの真意を見て取った——……誤魔化された、騙された、二重に騙されたのだ。では今度のはどんな企みなのか。
「手紙を置いてお引き取りいただくようにおっしゃい。……何ですの、お父さま。この方はどなた。こんなときにどなたをお連れになったのです」

 彼女がそう言ううちにテオンは、余人ならぬラファエル・アベン・エズラを部屋に導き入れ、それから退席した。

 ラファエルは悠然とヒュパティアに近づくと、片ひざをついてシュネシオスの手紙を手渡した。

 予期せぬ出現に、ヒュパティアは頭から足先まで震えた。……いや、彼は少なくとも、昨夜の一件とその不面目については何も知らないはずだ。とはいえ彼の顔を見る勇気は無く、彼女は手紙を受け取って開封した。……その手紙に慰めを期待したのであれば、彼女の望みは果たされなかった。

 「シュネシオスから、かの哲学者へ
「運命の女神は愚老からすべては取れずとも、女神の欲するものは取り去れます。とはいえこの二者だけは奪いますまい——最善を尽くすことと、虐げられた者を救うこととは。他はともあれ、我が分別は決して女神に打ち挫かれはいたしません。己が不正をなしうるからこそ、愚老は不正を憎むのであり、不正を断つことが我が望みです。しかし、それを果たす力もまた女神に奪われました——かつて我が子を奪われたように……
    『その昔ミレトス人は強かりき
愚老とて友らの慰めとなった時もありました。高位の方から賜った愛顧を余人のために乱費しますもので、愚老以外の万人の恵みだなどと貴女もお呼び下さったものです。……彼らは我が手でありました——ですが……しかしながら、目下愚老は一人わびしく一切から離れております。ただし、貴女のお力は別です。貴女とそのご高徳は、何人たりとも愚老から奪えぬ善きものに数えられましょうから。なにしろ、常に力をお持ちですし、その先もお力は続きましょうし、間違いなく今も——常の如く立派に力をお使いでしょうから。
 愚老の縁者である、身分ある二人の青年、ニカイオス、ピロラオスにつきましては、私人であれ公人であれ、貴女を敬う者すべてのつとめとして、己の正当な権利を持つ身に戻ることを弁えさせましょう」

【原注】 シュネシオスからヒュパティアへの実在の書簡。

「私を敬う者すべて!」と言ってヒュパティアは苦いため息を吐き、それから、内心が顕われはしなかったかと恐れるかのように、はっとラファエルを見上げた。彼女は死人のように青ざめた。ラファエルの目には心からの同情の影があり、知っているのだと告げていた—— 一部始終を、ではないか? 本当に何もかも?
「もう会ったのかしら、あの——ミリアムには?」と言葉を詰まらせながら、彼女は一番心配なことを必死の思いで急いで尋ねた。
「いえ、まだです。つい一時間ほど前に着いたばかりなんですよ。それに僕にとっては、ヒュパティア先生が良い暮らしをされていることのほうが、自分の生活よりずっと大事ですからね」
「良い暮らし? 無くなりました」
「それならなお結構。僕は落ちぶれるまで、良い人生を知りませんでしたよ」
「どういうことです」

 ラファエルは言いよどんだがそれでも視線はそらさず、まるで何か言わなければならない重要なことがあってそれを言いたくてたまらないのだが、それを口にするのを恐れてもいるかのようだった。そしてついに——
「まあともかく、最後にお目にかかったときよりは、ましな格好だとは言ってくださるでしょう。前によく議論したガダラの悪霊憑きみたいに戻ってきたんですよ、ご覧のとおり、また服を着て——それにたぶん、正気になってね。……神がご存知だ」
「ラファエル! 私をからかいに来たのですか。知っているでしょう——ここに一時間もいて知らないはずがないわ——昨日まで私は、寝とぼけていたのよ」——と、彼女は目を伏せた——「皇后になろうだなんて。今日は破滅。明日にはたぶん追放でしょう。相変わらずの皮肉や思わせぶりな文句しか私に言うことはないの」

 ラファエルは黙ったままじっと立っていた。
「なぜ黙っているの。どうしてそんな悲しい真面目な顔をしているの。以前とはまるで違うわ。……何か妙なことを私に言わなければならないようね」
「そうなんです」と彼はじつにのろのろとした口調で言った。「どう——どう仰るのでしょうね、ヒュパティアは。アベン・エズラがやはり、死にゆくユリアヌスのようにこう申し上げたら。『ガリラヤ人の勝ちだ』と」
「そんなこと、ユリアヌスは決して仰いませんでした。それは修道士の中傷です」
「でも、僕は言いますよ」
「まさか!」
「僕は言うんです」
「辞世の言葉として? それなら真のラファエル・アベン・エズラはもう生きてはいないわね」
「でも、甦ったかもしれませんよ」
「では哲学上では死んで、蛮人の迷信の中に甦ったのでしょうよ。おお、結構な転生ですこと。これでお別れね、失礼」そして彼女は、立ち上がって去ろうとした。
「待って!——僕の言うことを聞いてください、今度だけ、我慢して。貴く愛しいヒュパティア。もう一言皮肉を言ってくださいな。そうすればまたご存知のとおりの昔の僕に——あなた以外の誰にも鉄面皮の、もとの悪魔に戻るかもしれませんよ。僕を忘恩の輩だなんて思わないでください。先生のおかげでないものが僕にありますか。純粋で高尚なお言葉だけが、この身にくすぶるおぼろげな記憶を保ってくれたのですよ。正義や真実がある、その形相に従って人が生きようと切望する見えざる精神の世界があるという記憶を」

 彼女は立ち止まり、驚いて耳を傾けた。自分自身はいったいどんな信念を持っていただろう。ともかく彼が何を発見したのかは聞いてみよう……
「ヒュパティア、僕はあなたより年を重ねていて——知恵があります。もし知恵が知識の木の果実ならね。ヒュパティア、あなたは物の片側しか、より善い半面しかご存知ない。僕は表も裏も見ました。あらゆるかたちの人間の思考、行動、罪、愚昧の間を何年も遍歴して、でも安らぎは無かった——愚昧にも知恵にも、感覚的獣性にも精神的夢想にも。先生のプラトン哲学にも安らえませんでした——理由はこれからお話しします。ストア哲学や、エピクロス主義、犬儒主義、懐疑主義へと進んで、懐疑主義自体を疑うに至って、どん底のそのまた底があるのを知ったのです」
「それ以下のどん底もあるのよ」とヒュパティアは、昨晩の魔術を思い出して考えた。だが、口にはしなかった。
「それで自己卑下を徹底して、自分は獣以下だと認めました。獣には法があってそれに従っているのに、僕は自らの無法の神であり、悪魔であり、ハルピュイアであり、旋風だったのですから。……自分が存在しているかどうかという動物的意識を呼び覚ますのにさえ、自分の飼い犬の世話になる始末でした。彼女を、その犬を自分の師として、犬に従いました。だって僕より賢明でしたからね。すると彼女は——あわれな物言わぬ獣は——神に遣わされ、神に従う天使のように、僕を連れ戻してくれたのです。人間性や、慈悲や、自己犠牲、信仰、崇拝、純粋な夫婦愛へと」

 ヒュパティアは驚いた。……そして、必死に自分の狼狽を隠そうとして、自分が何を言っているかほとんど分からないまま答えた。
「夫婦愛?……夫婦愛ですって。では、それがラファエル・アベン・エズラを誘惑して哲学を見捨てさせたくだらない餌だというの」
「天よ感謝します!」とラファエルは内心言った。「ということは、この人は僕を何とも思っていないな。もし気があるなら、自尊心からしてあんな皮肉は言えないだろう」。「そうなんですよ。愛しい先生」と、彼は声に出して答えた。「哲学を、知恵の探究を見捨てることになりました。知恵のほうが僕を探して、見つけてくれましたのでね。ですが本当の話、僕は願ったものでしたよ。生涯で一度だけ先生の範に倣って、先生のように結婚生活を始めようと決心したことに賛成してくださればと」
「皮肉は止して!」と、今度は彼女のほうが声を上げ、羞恥と恐怖をにじませて見上げてきたので、ラファエルはそんな言葉を口にしたことを後悔した。
「まだ知らなくても——すぐに知れることよ、本当にすぐに! あんな不愉快な夢の話は絶対にしないで。もしまだ私と話したいのならね」

 後悔の痛みがラファエルの心臓を撃ち抜いた。あの邪悪な婚姻を画策したのは、ほかならぬ自分ではないか。だが彼女は、返答する間を全く与えずに、大急ぎで続けた——
「それより自分の話をなさいな。何ですか、この変ないきなりの婚約は。キリスト教と何のかかわりがあるの。ガリラヤ人たちはむしろ独身という栄光によって——これに関する彼らの概念といったら、蒙昧な迷信ですけれど——それを餌に人を誘惑して改宗させるのだと思っていましたが」
「僕もそう思っていたんです、大好きな先生」と応えて、しばらく話題が変わるのを喜び、またおそらくは彼女の軽蔑したような調子に少し苛立って、昔の自分の、何だか悪戯っぽい醒めた態度をとり続けた。「なのに——人間の勝手都合な自己矛盾は説明しがたいものですね——ある日気づくと、自分でも驚いたことに二人の司教に捕まえられて、ほんの数日前は尼寺行きの運命だった若いお嬢さんと、否応なしに婚約させられていたのですよ」
「二人の司教?」
「単なる事実の話なんですよ。一人はもちろん、シュネシオスでした。——あの、支離滅裂このうえない、慈善心きわまるおせっかい焼きは、背後で僕を裏切ることにしましてね——でもこの話については、お手間を取らせるつもりはありません。本当に驚くのは、もう一人の仲人司教というのが——誰あろうヒッポのアウグスティヌスだったことです」
「改宗させるための餌か何かね」とヒュパティアは軽蔑した様子で言った。
「違うと断言しますよ。アウグスティヌスは僕に、それに彼女にも、まったく無礼にも包み隠さず通告したんです。思うに、こんな甚だしい堕落をするとはじつにあわれな輩だ。……しかし君らはどちらも独身生活というさらに高級な生活には何ら呼び招かれてはいないようだから、独身を強要はできない。……君らは肉に悩むだろう。しかし結婚しても、罪を犯すことにはならん、と。これに対して僕はこう答えました。僕は謙虚ですので、そのまったくの末席に喜んで座らせていただきますよ、アブラハムやイサクやヤコブと一緒に、って。……応じてアウグスティヌスは純潔への賛辞を述べたのですが、僕はそこに、再びヒュパティアその人の声を聞く気がしましたね」
「そうして内心冷笑したのね、いつも私を笑っていたように」
「実際その時は、皮肉る気分ではなかったですよ。それに僕が何を言う気になったにしろ、彼は本当に親切で、次には僕と彼自身のために話をしてくれたんです」
「どういうことです」
「まったく驚いたことに彼は、僕がユダヤ人や異教徒からは聞いたことが無いほどの婚姻への賛辞に話をすすめて、最後に若い既婚者に対する忠告を述べたのですが、これが本当にまったく素晴らしかったものですから、彼の話が終わった時には、一言言わずにはいられなかったんです。ご自身で妻帯して、自らの秘訣を実行して誰かよい人を幸せしておられないのは何とも残念な気がします、と。……あのとき彼の顔に浮かんだ表情。こうも考え無しに何だか古傷に触れないうちに、こんな無遠慮な舌、噛み切っておればよかったのにと、たちどころに思いましたね。……あの人は、それまでに苦い涙にくれたことがあったに違いないな。……でも彼は育ちの良い紳士ですからね。紳士らしくすぐに話を変えて、最高に感じの好い微笑を浮かべて言いました。いかなる縁結びにも加担しないことを自らの厳粛な決めごとにしてきたけれども、君らの場合は明らかに天がお互いをそれと示したのだから、云々で、歓びを禁じえない、とか……そうして、かつて人の口から出たことがあろうかという心からの祝福で話をしめくくったんです」
「ヒッポのソフィストがずいぶんお気に召したようね」とヒュパティアはいらいらして言った。「たぶんお忘れなのでしょうけれど、彼の見解など私にはまったく重要ではないのよ。あなたに重要に思えるようになったほどにはね。あなたが言うように、まったく自己矛盾している場合は特に」
「婚姻に関して彼が首尾一貫していようといまいと」と、いくらか得意げにラファエルは言った。「僕には少しも気になりませんね。両性の関係についてではなくて——これにかけては僕はたぶん彼に劣らぬ判定者ですし——それよりも神について話してくれるように頼みました。すると十分にその話をしてくれまして、それで僕はアレクサンドリアに戻ることになったのですよ。できることなら、僕がヒュパティアにしでかしたちょっとした悪事を埋め合わせられればと」
「どんな悪事をはたらいたというのです。……言わないのね。どんな悪事であるにしろ、私を改宗させて帳消しにするなんて有り得ないわ。これだけは確かです」
「そうでもないですよ。僕の見つけた宝はあまりにもすばらしくて、テオンのご令嬢と共有したいと願わないではいられませんから」
「宝ですって」と、彼女は蔑み半分に言った。
「そう、宝なんです。何か月か前にそこの下の所でお別れしたときに、僕が最後に言ったことを覚えていらっしゃいますか」

 ヒュパティアは黙った。彼が暗示した一つの恐ろしい可能性が、あのとき以来初めて、記憶に閃き渡ったのである。……だが彼女は、高慢にも天授の警告を拒んだ。
「ディオゲネスのように人間を探しに出かけると言っていたんです。約束したでしょう、誰か見つかったら一番にお知らせするって。僕は人間を見つけたんです」

 ヒュパティアは美しい手を振った。「誰のことだか分かるわ……あの磔刑にされた者ね。けっこうよ。私が求めているのは、人間ではなくて神です」
「どんな神を? ヒュパティア。神というのは我々の知的観念から、というよりその否定から——無限性や永遠性、不可視性や、無感覚性——それにもちろん不死性から成るのでしょう、ヒュパティア? 思い出しますよ、徳みたいな単なる人間的なものを神の属性にするのは、至高の一者を身体的領域に貶めることだとか、僕らはよく語しましたね」

 ヒュパティアは黙っていた。
「でも僕は、いつも何だかこんな気もしていたんです。絶対的一者に要する第一の属性は、単なる無限定の神以上のものであることだと——これがどういうことか、いつもよく分かっていたかは疑問ですけど——永遠なるものとか——全能なるものとか——唯一の神だということですら全然ないんだと。そうではなくて、義なる神でなければならないんですよ。——というより、ときどき僕らが話し合ったように、神は属性を持つのではなくて、正義そのものなんです。それで僕はずっと、古いヘブライの聖典が一者について述べていることを思い出しては、これは何かを語ってくれているという気がしてならなかったんですよ、つまり——」
「『僕があなたに語らなかった』何かをね! そう、そのせいで胸に一物ある感じがしたのね。小狡く見下していながらその女の弟子だなんて言って馬鹿にして。その実こんな妬み深いユダヤ人だったなんて、まるで疑いもしなかった。どうしてなの、どうして言ってくれなかったの」
「僕が獣だったからです、ヒュパティア。この正義がどんなものなのか、忘れかけていたんです。正義に咎められたくないから、正義を知るのが怖かった。だって僕は悪魔でしたからね、ヒュパティア。だから正義を憎み、あなたが正しいのも、神が正しいのもどちらも見たくなかった。あなたも神もどちらも、僕自身とは似ていないことになりますから。神よ、罪ある我にお慈悲を」

 ヒュパティアは彼の顔を見上げた。その男はまるで奇蹟のように変わっていたが——変わっていなかった。あの成熟したユダヤ人らしいしっかりとした風貌は、以前と変わらず力を弁えて堂々としており、輝く目には、以前のままの軽妙明敏なきらめきがあった。だが、顔の輪郭が和らいで穏やかになっていた。冷笑するような遊惰の仮面が消えて——訴えかけるような誠実な優しさが、面差し全体から輝き出ていた。蛹の殻を脱ぎ落として、中の蝶が現われていたのである。ヒュパティアは彼をじっと見て、この幻影が消えないかどうか試すかのように、目の先を手で払った。彼が、あの切れ者が!——あの嘲笑家が——アレクサンドリアのルキアノスが!——退廃の極みにあった日々でさえ、その深みと力で彼女を恐れ入らせた人が……その行き着く先がこれだとは。……
「臆病な迷信からでた気の迷いなのよ。……例のキリスト教徒どもが彼の罪だの、連中のタルタロスだので脅しているのね」

 何も恐れない明るく冴えた彼の顔を見なおして、ヒュパティアは自分の中傷が恥ずかしくなった。ここにラファエルは——シュネシオスは——アウグスティヌスは——学の有る無しを問わずゴート族やローマ人は行き着いた。……大きな流れに道がついたのだ。では……自分一人それに抗えるだろうか。

 抗える! 流れに従うとでも?——私が? 意志は堅固であり続け、理性は最後まで——死ぬしかないなら死ぬまで——自由なのだ。……だが昨夜は——昨夜は!

 ついに目を上げないまま、彼女は言った。
「それで、あの磔刑にされた者のうちに人間を見つけたからどうだというの。彼のうちに神も見つけたのかしら」
「ヒュパティア、グラウコンの、完全に正しい人の定義を思い出しませんか。……なんとしたことか、不正なことなど何一つ罪を犯していないのに、まったくの不正だと非難されて苦役の生涯を過ごして、私心の無さを徹底的に吟味されることになり、そんな道行きの果てに必ず行き着くところといえば、グラウコンの言うとおりで、昔のアテナイや昔のユダヤだけでなく、同意してくださると思いますが、現在のキリスト教化したアレクサンドリアにあっても——覚えておいででしょう、ヒュパティア——縛り上げられ、鞭打たれ、果てはまさに磔にされるのですよ。……磔刑にされるような人が正義の人だとプラトンが考えたのなら、僕だってそう考えちゃいけませんか。僕とプラトンが——それにクレメンス老司教も——ご存知のとおり、僕らと同じく善きプラトン主義者ですが——またアウグスティヌスその人も同意するのだとしたら、プラトンはあの奇妙な言葉を自分で語ったというより、神の霊に語らされたのですよ。同じ霊によらずにどうして同じことを語れるんです。彼らが同じことを言っているのなら、他の人だって同じ霊によって語るんじゃないですか」
「磔刑にされた人ね……いいわ。でも、磔刑にされた神だなんて、ラファエル! そんな冒涜、身の毛がよだちます」
「僕の哀れな同胞もそうなんですよ。ヒュパティア、彼らの日々の行いがわりと正しいのは、彼らが、一者は自らの栄光を保ち表す方法を一番よく知っていると思って崇敬しているせいなんでしょうか。でも、あの定義には同意して下さいますか。ご用心!」と、あの悪戯っぽい微笑を浮かべて彼は言った。「僕はアウグスティヌスと論争したもので、近頃ではいっぱしの論客になりましたからね。で、定義には同意なさいますか」
「もちろんよ——プラトンの定義ですもの」
「ですが、単にプラトンの著作とされる本に書かれたことだから同意なさるだけなのですか。それとも、ご自身の理性が真実だと語るのでしょうか。……答えてくださらないでしょうね。ではこれくらいは答えてくださいな。完全に正しい人は、人間の最高の模範ではないでしょうか」
「もちろん」と半ばはうっかり答えたのだが、不本意ながらの返答ではなかった。哲学者らしく、ギリシャ人らしく、舌戦のようなものに乗り出して、しばらく悲しい考えを閉め出すのは当然のことだった。
「では、アウタントローポス、範型である理想的な人間は、どんな個別的な模範よりも完全で、完全に正しい人でもあるはずですよね」
「ええ」
「では、面白い勝負事の一つとして考えてみてください。例の人が自分の正しさを世に表したいと思ったとしたら……彼にとって唯一の方法は、プラトンによるなら、グラウコンの言う、非難と迫害、鞭打ちと磔刑だけでしょう?」
「何を言っているのです、ラファエル。精神的な永遠の理想のために、物質的な鞭打ちや磔刑ですって」
「今までじっくり考えたことがありますか、ヒュパティア。人間の範型は何に似ているのか」

 ヒュパティアは新たな考えにはっとして——新プラトン主義者は皆そうだろうが——考えたことはなかったと認めた。
「でも僕らの師であるプラトンは、花から国家にいたるまでそれぞれのものの本質的範型が、永遠なるものとして天上にあると考えよと言っていますよ。たぶん僕らはこれまで、プラトン主義者として十分忠実ではなかったんですよ、大好きな先生。たぶん、僕らは哲学者で、そのうえちょっとパリサイ人でもあったもので、自分たちが他の人とは違うことを神に感謝する祈祷のつもりで、あらゆる研究をはじめたのです。それで、かつての喜ばしい日々によく好んで引用した、『国家』の別の句を誤読したわけです」
「何のことです?」とヒュパティアは、刻々と興味を募らせて訊ねた。
「哲学者は人間だということです」
「私を馬鹿にしているの。プラトンは、哲学者は知の対象を愛求するのに対して、他の人間は思いの対象を愛求する、と定義したのよ」
「まったくそのとおりです。ですが、哲学者が他の人間と異なるという点を力説するあまり、哲学者と他の人間の類似点を見落としたのだとしたら? そのせいで、結局は人間が類なのであって、哲学者はその種に過ぎないことを忘れていたのだとしたら、どうでしょう」

 ヒュパティアはため息をついた。
「こうお思いになりませんか。より大なるものは小なるものを含み、類の範型は種の範型も含むわけですから、あの人間の範型の一部——哲学者の範型をいじりまわすより先に、人間としての人間の範型についてもう少しよく考えていたほうが賢かったはずだとは? ……確かにこのやり方のほうが簡単だったでしょう。だって、哲学者よりも人間のほうが大勢いますしね、ヒュパティア。それに、どの人も本当の人間であり、研究のすばらしい主題なのに、哲学者はどれもみんな本物の哲学者とはいきませんから——たとえば、我らが友たるアカデメイア派とか、新プラトン主義者でも僕らの知っている一人二人とか。お気に障ったみたいですね。もう止しますか」
「いらだちのわけを誤解しているわ」と答えてヒュパティアは、大きな哀しげな目で彼を見上げた。「続けて」
「さて——やたら衒学的になりそうですけど——人間の定義とはまさに、既知の事物のうちで精神が動物的身体と一時的に結合している唯一のものが人間だ、というのではありませんか」
「というより身体の中に虜にされているのです、牢獄に囚われるように」と言って彼女はため息をついた。
「それがよければ、そうだとしておきましょう。ですけど、こう言ってはいけませんかね。その範型は——人間そのものは——それが範型であるからには、一時的に動物の体に虜にされるだろう、あるいは少なくともかつて一度はそうだったと。……何も仰いませんね。僕は無理強いする気は無いんですよ。……お暇なときに考えていただきたいだけなんです。あのガリラヤの漁師が言うことには、人がその姿に似せて造られたという神が肉体をそなえ、肉体をもって彼とともに湖畔のテベリヤにおられて、その栄光を、父なる神のひとり子としての栄光を彼は見たのだそうですが、これは理屈に合わないという非難に対して、プラトンは弁明してやれないものかどうか」
「最後の質問はまったく違います。神が肉体をそなえるなんて。私の理性に背くことよ」
「いにしえのホメロスの理性には背きませんでしたよ」

 ヒュパティアははっとした。あの古い、触れることのできる人間的な神に対する昨日の渇望を思い出したからである。それで——「続けて」と熱意をもって彼女は声を上げた。
「では仰ってください——この人間の範型は、もしどこかに存在するのだとしたら、神の心のうちに永遠に存在するはずですよね。少なくともプラトンはそう言ったでしょう?」
「ええ」
「そしてその存在は直接神から引き出されるのですよね」
「ええ」
「ですが人間は、他のどんな人とも違う、一個の意志ある人格です」
「ええ」
「では、この範型はそういうものであるはずです」
「そう思うわ」
「ただし、あらゆる人の能力や属性を、最高に完全なかたちで具えています」
「もちろんです」
「なんて素直に快く、もとの師匠が僕の弟子になってくださることか」

 ヒュパティアは目を涙でいっぱいにして彼を見た。
「ラファエル、私はあなたには決して何一つ教えなかったのよ」
「これ以上無いほど教えてくださったんです、愛しい先生、少しもそうはお思いにならなくても。でももう一つお答えください。息子であることは人間すべての属性ではないでしょうか。だって父ではない人は考えられますけど、息子ではない人は考えられませんからね」
「そうだとしましょう」
「それなら、この範型も息子であるはずです」
「誰の子ですって、ラファエル」
「もちろん『神々と人々の父ゼウス』の息子です。だって僕ら同意しましたものね、それは——いえ、それは人格だと同意されたのですから、今は、彼と呼びましょう——彼は自分の存在を神ご自身以外の何ものにも負うことはありえませんよ」
「それで?」と言ってヒュパティアは、疑惑に苦しみながら、それでも、死ぬまでラファエルが断言していたように、期待し、喜びながら、あの輝く目で彼の顔じっと見据えた。
「さて、ヒュパティア、息子は父と同じ種であるはずではありませんか。『鷲は鳩を生まず』とかの詩人は言っています。父と完全に似て同一であるのでなければ、息子なんて言葉は何か間違った空しい比喩だというほかないでしょう」
「半神らは自らより劣る息子を持つと、かの詩人は言っていますわ」
「今問題にしているのは、ホメロスのゼウスが、野の獣らすべてのうちで最もみじめなものと呼んだような、そういうものとしての人間のことではないんですよ。問題なのは——不生不滅にして不変の永遠なる完全な世界に在る、完全なる範型的な「息子」、完全なる範型的な「父」、そして完全で範型的な累代発生であって、これは完全に類似した息子をもうけることだとしか定義できません——違いますか。……黙っておられるのですね。いいですよ、ヒュパティア……。僕ら、深みにはまりましたね」……

 そして二人ともしばらく黙っていた。ラファエルはウィクトーリアのことでもあり、イザヤの古のしるしのことでもある厳粛な思想について考え込んだ。そのしるしは、自分が見出した「人」に関する預言ではあるものの、自分にとってのしるしでもあり、この身はまったく卑しいにもかかわらず「神がともに在す」ことの証として、同じしるしがわが身にも繰り返されて自分も子どもを授かると信じ、祈っていたからである。

 だが、ラファエルはユダヤ人であり、男であったが、ヒュパティアはギリシャ人で女だった——またこれについては彼女の学校の男たちも同様だった。 人類共通の関係や義務は、彼女にとってはいかなる意味でも神々しい厳かな光を帯びていなかったのに対して、生涯初めて自らの聖典の意味を知り、本当にイスラエル人となった改宗したユダヤ人の目には輝いて見えたのである。またラファエルの論証も、ヒュパティアを黙らせはしても納得させることはできなかった。彼女の信条は、お仲間の哲学者たちと同様で、理性的道徳観念というよりは一種の空想的な宗教的情感だった。長年耽溺してきた輝かしい雲上世界のすべて——宇宙生成論、流出、親和性、象徴、位階、深淵、永遠云々——のうちに彼女は安らうことができず、信じてすらいなかったにもかかわらず——また最も必要としているときに、空中に淡く消え去ったにもかかわらず——それでも——それは、永遠に見失うにはあまりにも美しすぎた。それで、理性的確信が増すのに逆らって、とうとう彼女は答えた。
「そう、自分が捨てたように私にも捨てさせようというの。崇高で美しい天上のものを、無味乾燥とした不毛な論証の連鎖のために——そういう論証ではたぶん——やはりあなたとは渡り合えないわ、ラファエル——私は女なの——弱い女なのよ」

 そして彼女は手で顔を覆った。
「たぶん、何なのです?」と、ラファエルは優しく尋ねた。
「あなたは邪論を正論に見せかけるだろうということよ」
「アリストパネスはソクラテスのことをそう言いましたけどね。でももう一度、僕の話を聞いてください、いとしいヒュパティア。美しいもの、崇高なもの、天上のものを捨てるのは嫌だと仰いますが、でも、少なくともラファエル・アベン・エズラは、そんなものは今まで一度も見つけたことがなかったとしたらどうでしょう。僕がたった今言ったことを思い出してください。——もし、僕らお馴染みの「美しいもの」「崇高なもの」「天上的なもの」が、これ以上は無い純然たる唯物論であったとしたら。我々が肉体の目で見た快いものや、高いものや、低いもの、厳かなものの印象から、我々自身の脳が紡ぎ出した観念だとしたら、どうでしょう。もし、僕が気づいたように、精神的なものは知的なものではなく、道徳的なものだとしたらいかがでしょう。つまり、僕らは常々、精神的世界というのは、我々自身の知的抽象だの、宗教的かどうかはともかく身体的情動だのの世界だとしてきたわけですが、そうではなくて、正義不義の人の世であるのだとしたら。もし僕が気づいたように、正義は他の一切を含む精神的世界の一つの法であり、その法に調和しないことを非精神性と呼んできましたが、これは卑俗であるとか無様であるとか、無教育だとか、想像力の欠如でも鈍さということではなく、ただ単に不義であるということだとしたら? 僕が気づいたように、正義こそが、そしてこれだけが美しいものであり、正義こそが崇高なもの、天上のもの、神的なもの——いや神そのものだとしたら? 正義を似姿としてもつそれが、大いなる日の出のように、僕を照らしはじめたのだとしたら? どうでしょう、僕にはある人間が、しかも女性、うら若いか弱い少女が、神の栄光と美を明るみに示すように見えたとしたら。彼女は示したのです。美しいということは、義務として汚れの極みといった醜いものに怯むことなく立ち混ざることだと。崇高であるということは、最も下賎なところへと身を屈めて、外面的には最も格を落として自己否定することだと。天上的であるということは、この世の極めてありふれた係わり合いや、卑俗なつとめは神の命ずるところであり、このつとめは神が宇宙を支配するのに用いるのと同じ霊の助けによってのみ適切に行われるということを弁えることなのだと。正義とは、怒りや嫌悪以外の情を起こすに値しないように思える人々を愛し、助け、彼らのために苦しみ——もし必要なら彼らのために死ぬことなのだと。その光景を生涯で初めて——これが最後ではないと確信していますが、僕が見たとしたら? それを目の当たりにして開眼し、この光景が神の似姿であり栄光であるのを知ったとしたら。どうでしょう、プラトン主義者であるこの僕が、ガリラヤのヨハネやタルソスのパウロのように、いや彼ら、ヘブライ人中のヘブライ人のように、自ら認めたとしたら——被造物でもこれほど愛せるのなら、その範型はさらにどれほど愛せるのだろう。か弱い女性がこれほど耐えられるのなら、神の子はさらにどれほど耐えられるのだろうかと。他の者たちのために己の一部を犠牲にする力が人間にあるのなら、神には己のすべてを犠牲にする力があるでしょう。神が自らを犠牲にしたことはまだないとしても、この先犠牲にすることはあるでしょう。そうでなければ神は、僕のお粗末な神の概念よりも、いや、このか弱いおてんば娘よりも、美しくないし、崇高でもないし、天上的でもなく、正義でもありません。神はすでに己を犠牲にしたと僕に言う人たちを、信じてもよいではありませんか。結局のところ彼らの論拠は蓋然性だけだとしたらって? 子供が危険に晒されれば父はその子を救うと立証するのに、僕は数学的証明なんて求めませんし——今の場合だって求めません。僕の理性、僕の心、僕の機能のすべてが——まあ、感覚経験なんて馬鹿げたものは別ですけどね、これは瞬間ごとに僕を欺いているのが分かっていますし、僕自身の存在すら証明できない代物ですから——でも、これを別とすればすべてが、カルバリのあの物語は地上の出来事のうちでも極めて自然で、あり得る話で、必然の極みだと認めるのです。神は義なる人格であって、必然的に万物に偏在する霊なんていう夢想——こういう用語自体が自らの唯物論性格を告白しているわけですけど、そんな戯言などではないんだと考えればね」

 ヒュパティアは無理に微笑んで答えた。
「ラファエル・アベン・エズラは、対話法という厳正な論法を捨てて、恋する男の雄弁に乗り換えたというわけね」
「そうでもないですよ」と微笑み返して彼は言った。「まあ、考えてみてください。僕は内心こう言っているんですけど、僕らプラトン主義者は、神を見ることが最高の善だと同意しますよね」

 ヒュパティアは昨夜のことを思い出してまた身震いした。
「で、もし神が正義であり、正義は——僕はそうだと知っているのですが——愛と同じであるなら、それなら神は、人間自らが望み得るよりもはるかに高い最高善を人間たちのために望むはずです。……それなら、神は自らを、自らの正義を人間たちに示そうとするはずですよね。……お答えくださいますか、最愛のヒュパティア。それとも僕が答えたほうが? ……あるいは、黙っていらっしゃるのは承諾ということでしょうか。ともかくこれは言わせてください。つまり、もし神が自らの正義を人に示そうと望んだとしたら、その唯一完全な方法は、プラトンによれば、誹謗や迫害、鞭打ちや磔刑なんですよ。そうすれば、グラウコンが言う完全に正しい人のように、利己的関心があるとか忍耐力が弱いといった疑惑を、永遠に逃れていられますからね。……さて、僕は対話法を捨てているでしょうか、ヒュパティア。……まだ黙っていらっしゃるんですね。聞いてくださらないようだ、分かりました。……この先いつか哲学者女史は、誰よりもそのご恩を受けている者の言葉に、もっと親身に耳を傾けてくださるかも知れませんね。……というより、ご自身の心のうちで、範型的人間の声を聞いてくださるのではないかと。その声が彼女を愛し、導き、心身の円熟一切を山と積み上げ、純粋で高貴なあらゆる切望を抱かせてきたのはただ、彼女が自身の理性や哲学に聞き従うのを求めてのことなのですし、その理性や哲学は自らが神から与えられたものであることを示すのですから、神から与えられたときのように鷹揚かつ謙虚に、貧しい者に、粗野な者に、罪深い者に——彼女を愛するのと同様に神が愛している者たちに、哲学を伝えるようにと求めてのことなのです。……お別れです、さようなら」
「待って!」と彼女は跳ぶように立ち上がって言った。「どこへ行くの」
「死ぬ前にちょっといいことをしに行きます。たくさん悪いことをしてきましたからね。家畜を飼ったり、耕したり、家を建てたりして、ペルシャ人なら、善神オルマズドの地の片隅を悪神アーリマンの支配から救いに行くと言うのかな。アウストリアニ族の強盗と戦い、トラキアの傭兵を食わせ、後家さんを何人か飢え死にから救い、みなし児を何人か隷属の身からから救って……ことによると、ダビデの血筋の息子を僕の後に残しにね。その子は父親よりも善きキリスト教徒ですから、より善いユダヤ人になるでしょうしね。……君たちは肉に煩うことになるだろうと、アウグスティヌスは僕らに言いましたよ。……でも僕は言ったんです。僕には今まで肉の煩いなんてぜんぜんありませんでしたから、僕も公平に受け持つのが、たぶん他のやり方よりも有益な教育になるでしょうとね。では、さようなら」
「待って!」と彼女は言った。「また来てください——また。それにその人も。……奥様を連れていらして。……お会いしなければ。きっと気高い方なのでしょう、あなたに似合いの」
「あれは何十里も離れたところにおりまして」
「ああ。もしかすると、私に——哲学者に、何かを教えてくれるかも知れない人なのに。あなたは私を恐れる必要など無かったのよ。……今はもう、改宗させる気なんてまるで無いわ。……おお、ラファエル・アベン・エズラ、どうして損なわれた葦を折るのです。私の計画は風に吹き散らされ、弟子たちは使い物にならず、私の美名は曇り、自分の残酷さを思うと良心は重苦しい……。もしあなたが一切を知らないとしても、あまりにも早々に知ることになるわ。……最後の望みのシュネシオスも、私が彼に求めている希望を、自分のために乞い求める有様。……それに、それより何より……あなたが!……ブルータス、汝もか、よ。どうして、いにしえのユリウスのように、自分の外套を纏わせたまま死なせてくれないのですか」

 彼女の顔全体がまったく意気消沈してゆくのを、ラファエルは哀しげに見ながら立ちつくしていた。

* * * * * * * * * * * *

「ええ——来て……そのガリラヤ人が……強者を征服するというなら、か弱い娘が抵抗できるというの。すぐにいらして。……今日の午後に。……私の心はみるみる砕けてゆくわ」
「今日の午後八時では?」
「ええ……正午に講義を……というより別れを告げるのよ、永遠に学校に……神々に! 何を言えるというの。……私にナザレの人の話をしてくださいな。それではね」
「では失礼します、最愛のかた。九時には、ナザレの人についてお聞かせしますよ」

 ラファエルにとって自分の言葉が、ほとんど不吉なくらい妙に意味深長に聞こえたのは何故だろう。自分ではなく誰か別の者が口にした言葉のような気がしそうなほどだった。彼はヒュパティアの手に口づけた。氷のように冷たい手だった。彼もまた、一切の至福にもかかわらず冷え冷えと重い心で、その部屋を離れた。

 階段を降りて通りに出たところで、列柱の一本の陰から一人の青年が跳び出し、ラファエルの腕をつかんだ。
「ああ。敬虔なる掠奪者たちの我が若きコリュパイオスくんか。僕に何の用だ」

 それはピラモンだったのだが、見るなり彼だと認識したのである。
「あの方をお救いください。神の愛のためです。あの方を助けて!」
「誰を?」
「ヒュパティア先生ですよ」
「いったいいつから、ヒュパティアの救済が君に大事になったんだ? よき友よ」
「神のために、お願いです」とピラモンは言った、「戻ってください。あの方に警告してください。あなたの仰ることなら聞いてくださるでしょう——あなたは裕福ですし——ご友人でいらっしゃる——存じ上げているのです——お噂は聞いておりました。……おお、あの方をお気遣いくださるのなら——僕の千分の一でもおいたわしく思っておられるのなら——引き返して、外出しないように警告してください」
「もっとよく聞かせてもらわないとね」と、少年が本気であるのを見てラファエルは言った。「僕と一緒に来て、お父上に話したまえ」
「いいえ。お宅ではだめです。お出入り禁止なんです。わけは訊かないで、あなたが行ってください。僕の言うことは聞いていただけないでしょうから。あなたが——あなたのせいで聞いていただけなかったのでは?」
「何の話だ」
「僕はここで待っていたんですよ——ずっと! あの方の婢女に書付を託けたのですが、お返事はいただけませんでした」

 そこでやっとラファエルは、話の最中に書付が届いたのを思い出した。
「書付を受け取るのは見たな。でもあの人は捨ててしまった。君の話を聞こう。もっともな理由があるようなら、僕が伝言させてもらうよ。何を警告しようというんだ?」
「陰謀のことです——僕、知っているんです——修道士や挺身団があの方に陰謀を企てています。今朝、アルセニウスさまのお部屋で寝床に横になっていたら——僕が寝ていると思って——」
「アルセニウスが? つまり、あのご立派な狂信者は、修道院族がみんな辿る道筋にそって迫害者になったわけか」
「とんでもない! 読師ペテロに懇願なさって、何かを止めようとしておられるのを聞きました。何を止めさせるのかは分かりませんが、でもあの方のお名前が聞こえて……ペテロが話しているのが聞こえたんです。『道から除けないことには、あの厄介な女は邪魔立てし続けますよ』って。そうして廊下に出てゆきながら他の者に言ったんです。『汝がやれ、ただちにだ』って……」
「根拠薄弱だな、君」
「ああ、あなたはご存知ないのです。あの人たちが何をやってのけるか!」
「僕が知らないって? この前、僕が君と会ったのはどこでだったかな?」
 ピラモンは赤面したうえにもさらに赤くなり、慌ててまた先を続けた。「僕には根拠十分でした。僕は知ってるんです。彼らはあの方に罪があると思って憎んでいる。キュリロスさまがいらっしゃらなければ、あの方のお宅は昨夜のうちに襲われていたでしょう……それに、ペテロの口調も知っています。じつに穏やかで柔らかいもの言いでしたもの、何か悪魔的なことに違いない。午前中ずっと抜け出す機会を伺って、やっとここに来たんです。僕の話をお伝えいただけますか、あるいはお目にかかって——」
「何?」
「神のみがご存知だ。それに、連中が神の代わりに崇拝している悪魔も」

 ラファエルは急いで邸内に戻った。——「彼はヒュパティアに会えたのか」。彼女は自室に閉じこもり、誰も訪問者を通すなと厳命していた。……「ではテオンはどこにいたのか」。彼は数学関係の書類の束を抱えて、半時間ほど前に運河側の門から出かけており、誰も行く先を知らなかった。……「間抜けな老いぼれめ!」。ラファエルは急いで書字板にこう書きつけた。——
「あの若い修道士の警告を軽視してはなりません。彼の話は本当だと思います。御身やお父上を大事とお思いなら、今日は決して外に出ないでください」

 彼は婢女を買収して、階上に言伝を持って上がらせた。そして広間で待つ間に、奴隷たちにも警告した。だが奴隷たちは彼を信じないようだった。閉店した地区があったし、ムーセイオン庭園も無人で、昨日から人心がやや不安であったのは事実だった。しかしキュリロスがつい昨晩、平安を乱すキリスト教徒は誰であろうと破門すると威令したことは皆聞いていたし、午前中はずっと、通りには修道士の影は無かったのである。それなら、自分たちの女主人に何か恐ろしいことが起こるなんて——有り得ないことだ! 「野獣だってヒュパティアさまを引き裂きゃせんでしょう」と巨体の黒人門番は言った。「あの方を円形闘技場に放り込んだとしたって」

 そこで婢女は、そんなことを言った門番の横面を引っぱたいたのだった。それから言い改めるように、ご主人さまは雷だって逸らすことができるし、うなずきひとつでご自身のために戦う精霊の軍勢を呼び出せるのを自分は知っていると断言した。……こんな偶像崇拝者たちをどうすればいいのか。だがまた、だからと言って誰が彼らを嫌えよう。

 そうしてやっと、古風で雅な、装いを凝らした自意識の強い筆跡の返信が下りてきた。
「ご自身の新しい信仰に向けて私を説得なさるには奇妙なやりかたですね。ご説教のまさに初日に、その信奉者たちの邪悪さに用心しろと仰るとは。お気遣いには感謝します。ですが、私に対するご好意故に、弱気になっておられます。私は何も恐れていません。彼らは手出しはしないでしょう。いまさら敢行するくらいなら、とうの昔にやっているはずです。例の若者については——彼の言葉を信じて聞き入れるどころか、彼が居るのを知っていると思われるだけでも今後の私には恥辱です。厚かましくも私に警告してきたからこそ、私は出かけてやりましょう。ご心配はご無用に願います。私が生涯初めて我が身の危険を恐れるなどということを、あなたは望まないはずです。私は運命に従うべきです。語るべきことを語るべきです。何よりも私は、哲学者には狂信者ほどの勇気は無いなどと、どんなキリスト教徒にも言わせてはならないのです。私の神々が神々であるのなら、神々が私をお守りくださるでしょう。また、神々でないのであれば、あなたの神に、その神が善しとするままにその神が支配していることを証明させるまでです」

 ラファエルは手紙をばらばらに引き裂いた。……衛兵たちは、少なくとも世の他の者たちのようには狂っていない。彼女の講義には半時間はかかる。その間に、全アレクサンドリアを鎮圧できるだけの武力を召集すればいい。そこでラファエルはぱっと向き直ると部屋を跳び出し、家を後にした。
神は滅ぼさんとする者を何とやらだよ——」とラファエルは悲嘆の身振りでピラモンに叫んだ。「ここで待機してあの人を引き止めてくれ——最後のお願いをするんだ! 可能なら、馬の首を引き下げろ。僕は十分ほどで戻る」。そしてラファエルはムーセイオン庭園の、一番近い門に向かって駆け出した。

 庭園の向こうは官邸の中庭だった。その間を繋ぐ門がいくつもあった。オレステスに会うことさえできたら、いや、間に合ううちに衛兵に警戒させることさえできたら……

 そして彼は、恐れをなした市民たちが逃げ去った遊歩道や四阿を通り抜けて、一番近い門へと急いだ。門は固く閉じられ、向こう側からしっかりと防護されていた。

 縮み上がる思いで、彼は次の門に走った。そこも閂がかけられていた。見るなりそのわけを理解し、ラファエルはかっとなった。衛兵たちはムーセイオンなど眼中に無いのだ。もっともなことながら、わが街の驚異にして栄光であるムーセイオンにアレクサンドリアの大衆が危害を加える恐れはないと思ったからか、あるいはことによると、賢明なことではあるが極めて狭いところに武力を集中させるために、庭園との連絡路をすべて遮断することによって、境の高い塀を自分たちの大理石の砦の外防壁に変えるに甘んじたのだ。いずれにしても、ムーセイオン自体から続く扉は開いていてもよさそうなものだ。この古代文明の巨大な宝庫にあるどの扉も、どの広間も通路も、彫刻も絵画も、そして書物もほとんどすべて、彼は知り尽くしていた。彼は入り口を見つけ、勝手知ったる通路を抜けて裏門へ急いだのだが、そこは彼とオレステスが唇を悪い言葉で、心をさらに悪い考えで満たして百回もぶらついた裏門であり、そうした昔の悪事の記憶に彼は眉を顰めた。……裏門は固く閉じていた。殴るように門を叩いたが何の答えも無かった。別の門に駆け寄って試してみた。そこにも答えはなかった。また別の門を——絶望的に静かだ!……窓から衛兵に呼びかけられるかと期待して、階上に駆け上がった。思慮深くも兵士たちは、右翼の上階に続く入り口をすべて塞いで防護し、そこから官邸の中庭を見渡せないようにしていた。さあ、どこへ? 引き返して——それからどこへ? 引き返して、果てしない回廊や、丸天上の広間や階段、閉じたものもあれば開いたものもある戸口を巡って、上へ下へ、あの道この道を行ってみるうちに、森閑とした広大な迷宮のなかでどこにいるのか分からなくなることもしばしばだった。息切れして喉は渇ききり、顔は熱い砂嵐に焼けたようになり、下では足が震えていた。いつもの完璧に泰然自若とした心は、完全に無くなっていた。彼は網にかかったように当惑していた。呪縛されていた。夢なのか。あの恐るべき悪夢、列柱に列柱が、階段に階段が、部屋に部屋が果てもなく連なり、夢を見ている者の前でいつまでもいつまでも変容し、転変し、長く伸びては狭まって彼を取り囲んで窒息させるというあの悪夢。夢なのか。ここで学んでなした罪を償うために、いつまでもいつまでも死者の宮殿を彷徨う運命なのか。生涯初めて、彼の脳はふらつきだした。何か恐ろしいことが起ころうとしていて——それを止めなければならないのに、止められないということしか思い出せない。……今、どこにいるんだ。小さな脇室……ここで百回も、パロスや青い地中海を見渡しながらヒュパティアと話をしたものだ。……下の騒ぎは何だ?……何千も何千ものも頭が海のように叫びをあげて逆巻き、まさにその岸辺に打ち寄せて、数も知れぬ喉が一つの強大な鬨の声を上げていた。——「神よ! 聖母よ!」と。キュリロスの犬どもが野放しにされたのだ。……彼はよろよろと窓から離れると、再び狂ったように駆け去った。……どこへなのかは、彼にも分からなかった。死ぬ日まで決して分からなかった。

 ではピラモンのほうは?……悪苦は一日にても、一章にても足れり、である。

最終更新日: 2010年1月11日   連絡先: suzuri@mbb.nifty.com