左内はどうなったのか???第二話

 関ヶ原のとき、左内は同僚斎道二とともに一手を率いて福島方面に出陣しました。伊達と上杉の戦いです。始めは優勢でしたが、関ヶ原で西軍が破れると景勝は軍を引くように各隊に命じました。その時殿は道二が引き受けました。道二の息子諸左衛門ともども討ち死にしようということになり、松川辺りで、伊達方の追兵、某勘解由兵衛と対戦しました。そのとき、

「道二だけを冥土に行かせるものか」

と左内もとって返し両軍乱れての対戦になりました。道二は金の簾の指し物をしていてその活躍は目覚ましかったようです。そのとき、勘解由兵衛家中、荘子隼人と太刀を合わせました。このとき隼人は、「熊毛の羽織を着ていた」と貞山公治家記録にあります。道二は朝鮮の役のとき政宗公が熊毛の御羽織を着ていたと聞き及んでいたことか「良い敵なり」とばかり槍を合わしたそうです。戦後、道二はこのことを名誉とばかりに言いふらしましたが、実際、政宗公と槍を合わせたのは左内の方でした。一騎討ちの末、左内に分が有り、政宗は命からがら逃げました。一騎打ちで左内は政宗の旗指物 (陣羽織?) を奪うことができました。

 関ヶ原後、上杉家が 120 万石から 30 万石に減封になったことはご存知の通りです。そのとき左内は上杉家を去りました。それは新参者であったということと、自分が去ればその分扶持が浮くと考えたからだそうです。それを聞いた政宗は早速左内に使者を送り、伊達家に仕えるように説得しました。左内は政宗と謁し、奪った陣羽織を見せ「これは岡家の家宝だ!」と言いました。三千石で招かれたのですが、断りました。「私には多少の蓄えが有るので、もう仕官するつもりはなく悠々自適に暮らしたい」と言ったそうです。

 それを伝え聞いた上杉家の家臣は、皆青くなったそうです。なぜなら、いつ左内が借金取りに来るか知れたものではない。それを期待して仕官しないのだ!という風になってしまいました。いつの時代も借金取りは怖いものです。上杉家の家臣は俸禄が 1/4 になってしまっていますので、とてもではないが返す余力など有ろうはずも有りません。みな仕事が手に付かない様になってしまいます。それを見かねた直江兼続が左内のところに行ったそうです。
 左内は兼続が来たことで大体のことは悟ったらしく、すぐ蒲生家に仕官することを決めたらしいです。そして兼続が去るとき、上杉家の家臣との借財の証文をことごとく火中にいれてしまったそうです。それを見た兼続は、

「本当に惜しい男を手放してしまった。こういう男こそ必要なのに。。。」

と心から思った。と伝わっています。


 
左内の子、許宦 (もとのぶ) は、蒲生家改易後、黒田長政に仕官し、杉田源吾 (石田三成の子) の次女を妻にしました。杉田源吾はのちに津軽に下り、長女曽野 (大館御前) は二代藩主津軽信枚の側室になり、三代信義を生みました。岡左内許宦の子勘解由許旨 (もとよし) は母の縁を伝に津軽藩に仕官し、二百石を給されました。四代信政のとき城代にまで出世し、六百石に加増されました (津軽藩城代というと家老の次くらいと思います)。

 後、岡家は罪を得て百七十石になり幕末をむかえた。許保 (もとやす) のとき、三厩詰大将となりました。当時は外国船がひっきりなしに往来し、武門の誉れ高い岡家は三厩湊の警備にあたり、対外国船に備えたそうです。当時外国船打払令が出ており、緊迫したものがありました。しかし、三厩湊から数里はなれた袰月浜に外国船の上陸を許してしまいました。本失態により減知七十石、隠居という比較的軽い処罰であったと駒水物語で述べています。これは先祖左内定俊の財テクが末代まで賞され、しかも武門の誉れも高かったということで子孫を救ったのではないでしょうか。


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