高天神城

 「高天神を征する者は遠江を征する」と戦国の世に言われた高天神城は、遠江国掛川の二里南にあり、鶴の舞う姿に似ているため鶴舞城という。東西の峰に別れた山城であり、今川、徳川氏が掌握した。

 家康の麾下となった小笠原与八郎長忠がそのまま城主を勤めた。この城が武田勝頼の大軍に包囲されたのは 1574 年 6 月 18 日のときであった。信玄無き跡の勝頼は、東美濃の織田領である明智城などを落とし、そしてこの高天神城に迫った。父信玄でさえ落とせなかった城である。

 ここが城の入り口、搦手のあと。天正年間は渡辺金太照が兵二百十数名を率いて守った。天険の要害であり、山頂に本丸、西の丸両曲輪があり、大手門は南、搦手は北にあったが、城にいたる道らしい道はなかった (雑録)。守るに易く、攻めるに堅い城であった。

 現在はきれいに整備された道が、森の中を誘導してくれます。途中まではゆったりとした上り坂なのですが・・・・

 途中からこのように急に上り坂になります。今回の城攻めは、風邪引きさんであったため息が「はあはあ」切れました・・・左の写真ではわかりにくいのですが、この坂、かなりきついです・・・そして左の写真のてっぺんを左に曲がると三日月井戸があります。

 天正二年 (1574 年 5 月 12 日)、二万五千を有する武田勝頼勢に包囲され、小笠原長忠は力戦したが援軍が遅れたため力つき、六月十七日に開城し、武田の手に落ちた。これにより信玄公にも落とせなかった高天神を息子勝頼が落としたと言うことで、勝頼の武名は一時上がったが、長篠の負け戦で武田の影は薄れた。

 高天神に入った横田甚五郎院尹松は、遠江唯一の武田軍の拠点を良く守り、家康の攻撃を防いだ。家康は大々的な土木工事を持ってして高天神を孤立させ足かけ七年掛けて攻略した

 横田甚五郎 (高松の子供か?) は高天神城に援兵を送ることの無用さが分かっていたので、勝頼に援軍は結構である旨を手紙に託した。

 左の井戸は、武田軍が天正二年以降に、水乞いの意味も込めて造った物である。今でも当時の面影を残し、上の方の地下水から水が滴る・・・

 天正九年 (1581) に高天神城は落ちたが、このとき井伊直政が間諜を用いて水の手を切り、功を現したことが述べられている。

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