■ 岩倉に藤原公任を訪ねる
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朗詠谷  解脱寺閼伽井跡と石碑
 朗詠谷  右 解脱寺閼伽井跡と石碑

『和漢朗詠集』の選者で歌人として有名な藤原公任。
 京都市左京区岩倉にある藤原公任が晩年を過ごした山荘跡、公任が出家した解脱寺の跡を訪ねてきました。

周辺地図

解脱寺跡

 京都市左京区岩倉長谷町にあった天台宗の寺。平安時代中期、藤原道長の姉である東三条院藤原詮子(円融天皇女御)(962〜1001)が、園城寺観修を開山として建立しました。創建年代はわかりませんが、長保4年(1002)には観修は常行三昧堂を建立し不断念仏を修しているので、長保年間には存在していたと思われます。万寿3年(1026)、藤原公任が当寺で出家しています(『日本記略』)。
 解脱寺跡の位置は地元の伝承によると長谷東方の小松原の地とされており(『岩倉長谷町千年の足跡』)、そこには解脱寺の閼伽井の跡という伝承を持つ井戸が残されています。井戸の傍らには慶応3年の銘が入った「解脱寺跡之碑」と刻まれた自然石の碑が建っています。また近世の地誌『山城名勝志』巻12では、長谷川に沿って山沿いに5町ほど入った平坦地を解脱寺跡としています。

藤原公任の山荘跡および小野皇太后の常寿院跡

 藤原公任(966〜1041)は、平安時代中期の公卿・歌人。権大納言。四条大納言とも呼ばれました。学識豊かな才人で、『和漢朗詠集』『北山抄』の編者。晩年、解脱寺で出家し、長谷に隠棲しました。
 長谷町から瓢箪崩山へ向かう長谷川沿いの谷は、「朗詠谷」または「御所の谷」と呼ばれ、藤原公任の山荘をがあった場所といわれています。「朗詠谷」と称するのは、『和漢朗詠集』がここで編纂されたことによるといわれていますが、『和漢朗詠集』はそれより早く成立しています。公任の代表作であることにちなんで名付けられたのでしょう。
 長谷川に沿った飛騨池のかたわらに「朗詠谷」の石碑が建っています。
角田文衞先生の考証によると、公任の山荘はその死後公任の孫にあたる解脱寺の静覚に譲られ、静覚の同母(公任の娘)姉の小野皇太后・藤原歓子(1021〜1102)の御所となり、寺としたとされています。その場所ですが、朗詠谷の入り口にあたる辺りと推定されています。「朗詠谷」の石碑の手前の平坦な地にあたります。

公任の墓

 明治5年に廃寺となった常春庵の境内には公任の墓があったそうです。しかし残念なことに廃寺とともに所在不明となりました。念持仏と伝えられる十一面観音立像は、現在長源寺に安置されています(『岩倉長谷町千年の足跡』)。

【アクセス】京都交通バス上長谷下車
【参考文献】
中村治編集代表『洛北岩倉誌』(岩倉北小学校創立20周年記念事業委員会 1995)
松尾慶治『岩倉長谷町千年の足跡』(1988)
角田文衞「小野皇太后と常春院」(『王朝の明暗』東京堂出版 1977)



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