■ 酒呑童子の首塚
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首塚大明神
首塚大明神

 京都市内の西、旧山陰街道沿いの大枝(おおえ)の集落には、史跡がたくさん残っています。桓武天皇の夫人・藤原旅子の宇波多陵、母・高野新笠の大江陵、児子神社、大枝神社、関の清水、大枝の関跡といわれる関明神などなど。いまでは東海道自然歩道として、休日にはハイカーの姿も見られます。
 山城国と山陰地方を結ぶ境である大枝。平安京以前から交通の要所であるとともに、渡来系氏族が住む開けた地域であったようです。中でも注目すべきは、国の境であるということです。平安時代、平安京に進入してくる目に見えぬ疫神を防ぐために、『畿内堺十処疫神祭(きないさかいじゅつしょえきじんさい)』という祭りが行われた場所のひとつでした。
 大枝の集落を抜けると、旧山陰街道は国道9号線と合流し、老ノ坂トンネルをくぐって亀岡市へと通じますが、トンネルの手前の細い道(旧山陰道)をたどると、老ノ坂峠へ続きます。老ノ坂峠には、酒呑童子の首を埋めたと伝えられる、首塚大明神が祀られています。(「老ノ坂」は「大枝坂」からきているといわれています)
 酒呑童子といえば、丹波と丹後の境にそびえる大江山(京都府加佐郡大江町)が知らていますが、平安時代には、山城国と丹波国の国境であった大枝山(京都市西京区・亀岡市)こそが、その場所であったと考えられてます。
 では酒呑童子の正体って、いったい何だったのでしょうか?
酒呑童子の実態については、山賊だったとか、漂着した外国人だったとか、落武者であるとか、いろいろな説がありました。これについて、神戸大学の高橋昌明先生が、とってもおもしろい説を展開されています。高橋昌明先生によると、酒呑童子は実は疫病を流行らせる神である疱瘡神だったというのです。
 つまり平安京に侵入しようとする疫神を、都の入口で勇士が迎え撃ち撃退するというのが、大江山の鬼退治伝説の原型だったというのです。

本殿裏と從是東山城國の道標
本殿裏 石積みに御幣。塚の頂上か?  「從是東山城國」道標

【アクセス】京都交通バス「老の坂」下車 国道9号線・老の坂トンネル入口手前の旧道を400メートル
【参考文献】高橋昌明『酒呑童子の誕生』中公新書 1992年



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