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和泉式部

 和泉式部は、越前守大江雅致の娘で、平安時代中期を代表する歌人です。生没年は不明です。はじめ和泉守橘道貞と結婚し、夫の官名により和泉式部と呼ばれました。その後、道貞と別れ、冷泉天皇の皇子為尊親王、敦道親王と恋愛し、そのときの情熱的な恋愛体験を物語ったのが『和泉式部集』『和泉式部日記』などです。両親王が亡くなった後、藤原道長の娘、一条天皇中宮彰子に仕えました。その中で藤原道長の家司である藤原保昌と再婚しました。晩年についてはわかっていません。

和泉式部と貴船

和泉式部の歌碑と蛍岩
和泉式部の歌碑と蛍岩

 京都の北、貴船神社は、夫婦の仲を守る神、縁切りの神ともいわれていました。和泉式部も夫・藤原保昌との仲を修復するために参詣し、貴船川の蛍をを見て和歌を詠みました。貴船神社への参道には蛍岩と、歌碑があります。
 「もの思へば沢の蛍も我身よりあくがれ出づる魂かとぞみる」

和泉式部と東北院

東北院
現在の東北院と軒端の梅

 謡曲『東北院』は、旅の僧が東北院をたずね、梅の精から和泉式部の軒端の梅の由来を聞き、式部のために読経するという話しです。
 東北院は、一条天皇の中宮彰子によって、法成寺の東北に建立されました。しかし度々の火災によって衰微しますが、元禄5年(1692)の大火で焼失し、吉田山の東の現在地に移転しました(写真左)。
 もとの東北院の位置は、京都御苑の東面、紫式部の邸宅跡として知られる廬山寺や清浄華院と並ぶ本禅寺(上京区北之辺町)のあたりです。

和泉式部の墓

 和泉式部寺という通称で呼ばれている誠心院(じょうしんいん)は、東北院の中に藤原道長が和泉式部のめに小御堂を与えたのがはじまりであるという伝承を持っています。同寺には、道長像、和泉式部像、和泉式部絵巻などの寺宝を有しています。また境内には和式部の墓と伝える宝篋印塔があります(写真左)。

 和泉式部の塔や木の伝説は、日本各地に残されています。これは俊寛有王伝説、小野小町伝説が各地に残されているのと同様に、高野聖たちや歩き巫女たちが勧進と唱導して日本中を回国した証です。右の写真は京都府木津町に残る和泉式部の墓です。



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