■河原院跡
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河原院のあたり
五条通の交差点にある陸橋の上から撮影しました。まさに河原院の中心部をのぞむことになります。

河原院跡

 左大臣源融の邸宅・河原院は、平安京に営まれた邸宅の中でも、もっともその豪壮さをうたわれました。南を六条大路、北を六条坊門小路、東を東京極大路、西を萬里小路に囲まれた4町(一辺250m)の広大な敷地を占めていました。8町とする文献史料もありますが、これはいくらなんでも大きすぎますので、平安京探偵団では4町説をとっています。庭には塩竃の風景をうつし、海水を運ばせて塩焼きをして楽しんだといい、在原業平をはじめ多くの歌人・文人たちの遊興の場でもありました。融の死後、宇多上皇に献上されましたが、のち上皇はこれを融の三男仁康に与えて寺としましたが、数度の火災で荒廃しました。
 
 南北朝時代の『源氏物語』の注釈書である『河海抄』は、光源氏の「六条院」のモデルとして、この河原院と、『宇津保物語』に登場する紀伊国の長者・神無備種松[かんなびのたねまつ]の邸宅とをあげています。(同書は、光源氏と夕顔とのロマンスの舞台となった「某の院」のモデルもまた河原院であったと記しています)
紫式部はこうした邸宅のイメージを頭の中で組み合わせて光源氏の六条院の姿を造り上げたのではないでしょうか。それに、平安時代中期の貴族たちにとって、物語の中に「賜姓源氏の邸宅で、4町を占める広大さを誇り、しかも六条にある」という邸宅のことがでてきたら、なにはさておき一昔前に栄華をきわめた河原院のイメージがパッと頭にひらめいたことでしょう。才女・紫式部は、そうした効果を充分に計算した上で物語を構成したに違いないと思います。

河原院址石碑  河原院発掘現場

 左の写真は、下京区木屋町通五条下ルにある「河原院址」の石碑です。横にある榎ですが、これにもいわれがあります。この辺りはかつて「籬の森(まがきのもり)」と呼ばれる森でした。この籬の森とは、もと河原院の邸宅内の庭の中の島「籬ノ島」が、鴨川の氾濫によって埋没し、森として残ったと伝えられています。この森も都市化によって、石碑の横の老木だけになってしまったそうです。(竹村俊則著『昭和京都名所図絵』洛中参照)ただしあくまで伝説であることをれなくお忘れなく。石碑の位置を平安京復元図にあてはめますと、ほんの少しばかり河原院推定地よりはみだしてしまいます。

 1994年京都市埋蔵文化財研究所によって、河原院と推定される場所の1部が発掘されています。場所は、五条通富小路の北側、左京六条四坊十一町にあたります。当時、河原院の庭園が出たと評判になり、ラン2も見に行きました。調査区域は狭かったですが、確かに池の跡を見ることができました(写真右)。



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