■ 『平家物語』を読むための邸宅案内
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藤原邦綱邸

【左京北辺四坊二町】「土御門亭」「正親町東洞院亭」の名称で知られる。白河法皇、鳥羽天皇、後白河法皇、高倉上皇はしばしばこの邸宅に行幸・御幸し、御所として使用している(『中右記』長治元年7月11日条、『百練抄』仁安元年12月24日条、『山塊記』治承2閏年6月11日・同年3月26日・同4年3月4日条、『玉葉』文治2年5月20日条)。

【左京五条二坊十五町】藤原邦綱は富裕をもって知られるとともに、平清盛政権の重鎮であり「五条大納言」と通称された。安元3年(1177)の太郎焼亡において、全焼してしまう(『清カイ(けものへんに解)眼抄』)。

【左京六条三坊十六町】→「五条東洞院内裏」


藤原成親邸

【左京一条三坊十三町】平安時代後期、中納言藤原家成の邸宅であったが(『兵範記』仁平2年11月15日条)、彼の三男権大納言藤原成親に伝領された(『平家』『玉葉』文治4年8月4日条)。その間、崇徳上皇の御所となったこともあった(『兵範記』久寿2年7月24日、同年12月1日条)。安元3年(1177)6月1日の鹿ヶ谷の変(『玉葉』)により成親が失脚した後、この邸宅は後白河法皇の所有するところとなった。


藤原隆房邸

【左京二条四坊六町】冷泉万里小路第(『玉葉』文治2年5月11日条)。

【左京四条一坊十三町】四条大宮第(『山塊記』安元元年8月16日条)。


藤原頼長邸

【左京二条四坊七町】大炊御門高倉亭(『台記別記』久安4年8月9日条)。頼長の舅である藤原実能も同居していた。


藤原基房邸

【左京二条三坊十六町】関白藤原基房の邸宅で「松殿」ともいわれていた。承安3年(1173)、この地に邸宅を新造し、ここに移った(『玉葉』承安3年12月16日条)。関白という皇位の人物の邸宅としては十六町の西北の四分の一町という狭いものにすぎなかった(『拾芥抄』中、九条家本『延喜式』付図)。


平経盛邸

【左京三条三坊九町】白河法皇、待賢門院藤原璋子の臨時の御所となった二条烏丸第があった。その後、待賢門院の兄権中納言藤原実能およびその婿藤原頼長が居住するが、保元元年(1135)にいたり焼亡。その後参議平経盛の邸宅があったが、平氏政権の倒壊とともにこの地は鎌倉幕府に没収されてしまった(『吾妻鏡』文治2年2月27日条)。


閑院

【左京三条二坊十五町】閑院、平安京における超一流の邸宅として知られる。平安末期から鎌倉時代にかけては里内裏として使われてきた。仁安2年(1167)、摂政藤原基房は閑院を新造する。翌年には高倉天皇が閑院において践祚している。それ以降、高倉、安徳、後鳥羽、土御門の四代にわたって里内裏として使われた。通説では閑院内裏は、十五町・十六町の二町を占める邸宅とされてきたが、野口孝子先生の考証により、二町ではなく一町であることが判明。


信西入道藤原通憲邸

【左京三条二坊十四町】『平治物語』によると信西入道藤原通憲の邸宅は、姉小路西洞院にあったとされる。


高松殿

【左京三条三坊三町】久寿3年(保元元年、1156)の後白河天皇の践祚とともに御所と定められた。保元の乱においては天皇側の拠点となった。平治元年(1159)、失火のために焼失してしまった(『百練抄』同年7月16日条)。

→保元・平治の乱の舞台


高倉宮

【左京三条四坊四町】後白河天皇の皇子以仁王の邸宅。

→以仁王の挙兵


三条東殿

【左京三条三坊十三町】白河法皇、鳥羽上皇の御所、後白河天皇の里内裏であり、平治の乱勃発地としても知られる(『拾芥抄』)。平治の乱で、源義朝が、三条東殿を夜襲した様子が、『平治物語』『平治物語絵巻』によってよく知られている。

→保元・平治の乱の舞台


三条西殿

【左京三条三坊十二町】白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院藤原璋子の御所。承安2年(1172)、後白河法皇の御所として、法皇と建春門院平滋子が入り、高倉天皇も父法皇のこの御所に頻繁に行幸している。三条西殿は安元2年(1176)まで文献史料上にしばしば登場する。


五条東洞院内裏

【左京六条三坊十六町】六条・高倉・安徳各天皇の御所となった「五条東洞院内裏」。仁安2年(1167)、六条天皇はこの五条東洞院殿を皇居としたが、御殿の棟に白鷺が止ったことが不吉とされ、同年のうちに正親殿に遷っている(『兵範記』同年正月22日.7月7日条)。この五条東洞院殿は仁安2年に焼失した(『兵範記』同年9月27日条)。この跡地を平邦綱が入手して邸宅を新造したが、安元3年(1177)の太郎焼亡で焼失してしまう。しかし邦綱はただちに再建し、譲位をひかえた高倉天皇の御所にあてられることになった(『玉葉』治承4年正月10日条)。治承4年(1180)即位した安徳天皇この五条東洞院第に入り、ここを御座所とした(『山塊記』同年2月21日条)。平家が安徳天皇とともに西海に落ちた後は、この五条東洞院第は摂政藤原基通の邸宅となった。後白河法皇は、源義仲の法住寺殿襲撃(寿永2年<1183>)の際、この基通邸に避難していたと伝えられる(『玉葉』同年11月19日条)。


藤原俊成邸

【左京五条四坊十三町】歌人として有名な藤原俊成の五条京極家。この邸宅には俊成の子の定家も同居していたが、治承4(1180)の火災によって焼け出されている。この火災の後、仮寓を転々としたが、遅くとも建久3年(1192)には再建し、ここに戻っている(『明月記』同年3月14日条)。


六条殿

【左京六条二坊十三町】後白河法皇の御所として知られる六条殿(後の長講堂)がこの町に所在した。平安時代末期、平業忠の邸宅であった。業忠は、後白河法皇の近臣で、その縁で法皇は寿永2年(1183)にこの邸宅へ移御されることになった。この六条殿は文治4年(1188)に焼失してしまうが、法皇はこれを一町に拡張し再建する。邸内には大規模な持仏堂が営まれた。それが長講堂である。建久3年(1192)、六条殿においてその波瀾にみちた生涯を閉じた(『百練抄』同年3月13日条)


源氏堀川第

【左京六条二坊十二町】清和源氏の居館があった。この邸宅は「源氏累代」の館といわれており、源為義が六条判官と呼ばれたのもこの邸宅の位置に由来する。京都に入った源義経もまた、この邸宅を宿所としている(『百練抄』文治元年10月17日条)。


平時忠邸

【左京七条四坊一町】治承3年(1179)、この南隣の七条四坊二町から火が起きた。時忠はこのとき検非違使別当を兼ねていたため、検非違使が駆けつけてこの付近の民家を壊し、危ういところで時忠邸への延焼を食い止めたのであった(『山塊記』治承3年11月3日条)。


平資盛邸

【左京七条四坊九町】九条家本『延喜式』付図によると、九町には平資盛邸が存在した。


平宗盛邸

【左京八条四坊五町】(『山塊記』治承2年閏6月15日条、『吉記』寿永2年2月21日条)平氏政権の倒壊とともにこの邸宅は源氏側に没収された。


平頼盛邸

【左京三条三坊十四町】『清カイ(けものへんに解)眼抄』。

【左京八条三坊五町】(『百練抄』養和元年2月17日条)。


平重盛邸

【左京八条二坊五町】『拾芥抄』東京図がこの地に「小松殿」と記している。

【左京五条四坊六町】『清カイ(けものへんに解)眼抄』によると安元3年(1177)の太郎焼亡では、五条坊門万里小路西角にあった内大臣平重盛の邸宅が罹災している。これは新築中の屋敷であったらしく、寝殿以外の建物は仮葺きのままであり、重盛もまだ移転していなかった。


八条堀川堂

【左京九条二坊九町】藤原家成の邸宅が所在し、長承2(1133)、その邸内に仏堂が建立された。これが「八条堀川堂」である(『拾芥抄』東京図、九条家本『延喜式』付図)。寿永3年(1184)、一の谷合戦で捕らえられた平重衡が、拘禁された場所である。

→源氏館はいずこ?


西八条

【左京八条一坊三〜六・十一〜十四町】左京八条一坊十一町には、平清盛の西八条第の中心となる邸宅があった(『山塊記』治承33年12月16日条)。ただし、治承4年(1180)3〜5月の史料には、この邸宅は清盛の妻時子の「八条櫛笥亭」として登場する(『山塊記』治承4年3月17日・19日・4月9日・10日・5月22日各条)。これは、清盛が摂津国福原の別業に移っていたため、西八条第には妻の時子が居住していたことを示す。その間、高倉上皇もこの邸宅を御所にあてていたことがある。

西八条第跡


平重衡邸

【左京九条一坊八町】『中古京師内外地図』はこの町に平重衡の邸宅があったとしているが、ほかの文献史料からこれを実証することはできない。しかし、平氏の西八条第の南に隣接した場所でもあり、平氏関係の邸宅があったとしてもおかしくはない。


平盛国邸

【九条河原口】養和元年(1181)、平清盛が生涯を閉じたのは、九条河原口に所在した平盛国の邸宅であった(『吾妻鏡』同年閏2月4日条)。『中古京師内外地図』では、この盛国邸を九条四坊十三町に比定している。


法住寺殿

・・・作成中・・・


六波羅

→平氏六波羅第跡


白河

→白河と六勝寺1|白河と六勝寺2


鳥羽

→鳥羽離宮散策1|鳥羽離宮散策2


『平家物語』を読むための平安京図

【参考文献】
山田邦和「左京と右京」『平安京提要』(角川書店)
古代学研究所編『平安時代史事典』(角川書店)


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