■ ふたつの恋塚寺
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 北面の武士遠藤盛遠は、渡辺渡の妻袈裟御前に横恋慕します。袈裟御前は、夫・渡辺渡を殺してくれと盛遠にもちかけ、操を守るため自分が夫の身代わりとなって盛遠に殺されます。この後、遠藤盛遠は出家し文覚となのります。『源平盛衰記』の中で語られている有名な伝説です。京都には、文覚が袈裟御前の菩提を弔うために建てたと伝えられる「恋塚」を持つ寺があります。
 伊東宗裕氏の『京の石碑ものがたり』(京都新聞社 1997)を読むまで、恋塚寺が京都市内に2ヶ所あるとは知りませんでした。ひとつは上鳥羽の浄禅寺。六地蔵めぐりでも有名で、通称恋塚寺といいます。もうひとつは下鳥羽の恋塚寺。ふたつの寺には同じ伝承が伝えられ、どちらにも恋塚と石碑があります。
 先日、下鳥羽の恋塚寺を訪ねてきました。ようやく念願のふたつの恋塚を見比べることができましたので紹介させていただきます。

 平安京探偵団的に史実を探そうとすると、壁にぶつかってしまいます。文覚上人はまぎれもなく実在の人物であり、時代の鍵をにぎる重要な役回りも務めました。しかし彼自身についても、その実伝は明瞭ではなく、袈裟御前との事件がもとで出家したというよく知られている話も史実かどうかはわかりません。袈裟御前の存在も、『源平盛衰記』では「渡辺渡の妻袈裟御前」ですが、その他の史料では「鳥羽刑部左衛門が女房」(『延慶本平家物語』)、「鳥羽の典女」(『両足院本平家物語』・御伽草子『猿源氏』)、「鳥羽秋山刑部左衛門修乗の妻」(『四部合戦本平家物語』)等々一様ではなく、その内容も様々であることを書きそえておきます。

上鳥羽の恋塚寺(浄禅寺)

 伏見区上鳥羽岩ノ本町にある浄禅寺は、寺伝によると文覚上人の開基とされています。鳥羽街道に面し、京の六地蔵めぐりのひとつ「鳥羽地蔵」として信仰されています。境内入り口には、正保4年(1647)に建立された林羅山の撰文による恋塚碑、袈裟御前の首塚といわれている五輪塔の「恋塚」があります。本堂には、袈裟御前の木像が祀られています。
 こちらの「恋塚」について、近世の地誌『雍州府志』(巻5)には「恋塚」は誤りで、実は「鯉塚」でるということが書かれています。「古上鳥羽池中有大鯉魚 時々作妖怪 土人殺之 為築塚云」とあるように、妖怪となって現れた鯉を退治して塚を築いたのが「鯉塚」であるというのです。

恋塚と恋塚碑
恋塚と恋塚碑

下鳥羽の恋塚寺

 伏見区下鳥羽城ノ越町にある恋塚寺も、寺伝によると文覚が袈裟御前の菩提を弔うために建てたとされています。境内には、袈裟御前の首塚と伝えられる宝筐院塔があり「恋塚」と呼ばれています。その横には六字名号碑、寺の縁起を示す「縁起石碑」があります。境内入り口の山門横には、明治42年(1909)に建立された「重修恋塚碑」が建ち、恋塚と寺の由緒が記されています。

左から重修恋塚碑・縁起石碑・袈裟御前首塚(恋塚)
左から重修恋塚碑・縁起石碑・袈裟御前首塚(恋塚)

 本堂脇の座敷には、文覚上人、袈裟御前、源渡の木像が並んで安置されいます。寺宝として「縁起絵巻」(江戸時代)があるそうですが、修復中で見ることはできませんでした。

左から文覚上人・袈裟御前・源渡の像
左から文覚上人・袈裟御前・源渡の像

 ひとつ興味深いことがあります。
 下鳥羽の恋塚寺には「鳥羽恋塚碑銘」と題した版木が伝えられています。この版木には、上鳥羽の恋塚寺にある正保4年銘の「恋塚碑」の撰文と全く同じ内容が刻まれています。ひとつ違うのは、上鳥羽の恋塚寺「恋塚碑」が正保4年(1647)銘で、版木には寛永17年(1640)という年号が刻まれていることです。「鳥羽恋塚碑銘」とあるからには、かつて下鳥羽の恋塚寺にも同じ撰文を持つ碑が建っていたとも考えられるのではないでしょうか。

鳥羽恋塚碑銘版木
鳥羽恋塚碑銘版木


【アクセス】
上鳥羽の恋塚寺(浄禅寺) 市バス地蔵前下車すぐ 鳥羽大橋北詰下車 徒歩5分
下鳥羽の恋塚寺 市バス下鳥羽城ノ越町下車 徒歩5分

【参考文献】
伊東宗裕『京の石碑ものがたり』(京都新聞社 1997)
※碑文については伊東宗裕さんのサイト「京都の石碑」が参考になります。
ハラッパの会編『京都歴史ロマン 一千年の恋人たち』(ユニプラン 1997)
冨倉徳治郎『平家物語全注釈』(角川書店 1967)



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